ツワナ人の定住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 07:04 UTC 版)
現在のボツワナの国民は人口の4%を占める少数民族のサンとコイ、95%を占めるバンツー系のツワナ人である。ツワナ人の口承伝承によると1250年には現在の南アフリカ共和国トランスヴァール地方で農耕を主として居住していたことが分かっている。 1400年には初めてバンツー系民族の一つカラハリ族がボツワナに侵入し定住を開始した。1600年にはツワナ人がボツワナに移動を開始、1800年にはカラハリ砂漠を境としてボツワナの中部、南東部の広範囲に定住した。ボツワナにおいて、ツワナ人の農耕と交易を妨害するものはおらず、ツワナ人は次第に豊かになっていった。しかしボツワナの気候風土は厳しく、人口の集中を許さない。このためバンツー系民族の伝統である大家族ではなく、家族集団を中核とした拡散した社会が築かれていった。ツワナ人は自らを8つの部族からなると主張する。カトゥ、クウェナ、クガトゥラ、タワナ、ロロン、ングワケツェ、ングワト、ンデベレである。彼らの部族意識は強く、互いに1200年に及ぶ口承伝承を競っている。 ツワナ人社会は部族の長「コシ」を中心とする集権型社会である。コシは部族の法を定め、裁判を行い、他の部族との交渉を行った。コシは父系である。コシの権威は強かったが、異を唱えることができないほど独裁的ではなかった。例えば、コシによる裁判においても、まず部族の法廷コータで討論を行い、判決のみをコシが下すというものであった。各村がコータを持っており、コータ制度は21世紀の現在まで継続している。 コシの下にはコシの親族が占める貴族階級が形成されており、この下にツワナ人からなる大多数の平民が属していた。ツワナ人は奴隷を持たなかったが、ツワナ人に使役を命じられる階層として、他のバンツー系民族のうちツワナ人に征服されたもののほか、コイやサンの一部も含まれていた。主に、農作業や放牧、狩猟に従事していた。このようにしてツワナ王国が次第に形成されていき、北部のイェイ族、北東部のカランガ族を従え、現在のボツワナ全域を支配していた。 ツワナ人とサンの間には長い交流があり、物資の交換、労役の提供などのつながりがあった。南部アフリカに限らず、このような場合は互いの言語に影響が蓄積されていく。軽微なものでは外来語であり、交流が深まるとピジン言語、さらにはクレオール言語の発生に至る。しかし、ツワナ人とサンの間にはこのような言語の浸透が起こっていない。人口の面から圧倒されてもおかしくないサン側もコイサン語族に属する独自の言語を残している。これがなぜなのかは分かっていない。
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