日本敗戦後
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1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、終戦後も一等兵赤津勇一(49年9月逃亡、50年6月投降)、伍長島田庄一(54年5月7日没)、上等兵小塚金七(72年10月19日没)らと共にルバング島に取り残された。4人は作戦を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報が出されたが、1950年に赤津が投降し、保護された地元警察でこれまでの島での生活を証言したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。 フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した[要出典]。 使用した武器は99式短小銃、38式歩兵銃、軍刀などであり、そのほかに放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。29年間継続した作戦行為によって、フィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった[要ページ番号]。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した。 また小野田は住民から奪取した短波トランジスタラジオにこちらも住民の小屋から奪った銅ワイヤーを使った自作アンテナを取り付け、BBC、ABC、北京放送、ラジオピョンヤン、ラジオジャパンなどの放送を聴取することで独自に世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えていた[要出典]。 小野田は、日本の短波放送のみならず、現在の情勢を理解してできないがゆえにルバング島で小野田等は戦闘を継続しているのだろうと考えた日本からの残留兵捜索隊が現地に残していった日本の新聞や雑誌からも、情勢について把握していた。皇太子明仁親王(当時)成婚、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線開業などの記事によって、日本が繁栄していることを理解していた。しかし、士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていたという[要出典]。 また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始されたのだと考え、またフィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、いよいよアメリカは日本に追い詰められたのだと信じたのだという。 このように彼にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、小野田は20年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日本短波放送の中央競馬実況中継を聞き、戦友小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。
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日本敗戦後
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1945年(昭和20年)、ポツダム宣言受諾が決定されたが、8月12日に昭和天皇が皇族に伝達した際には、王公族の李垠と李鍵も参列している。昭和天皇はこの際に王公族の今後についても協議するべきではないかと考えたが、内大臣の木戸幸一によって制止されたため、協議は行われなかった。 日本の降伏によって、日本は朝鮮半島における支配権を喪失したが、王公族の身分にはこの時点では変更はなかった。しかし1945年度で王族に対する歳費は打ち切られ、王公族の暮らしは苦しいものとなった。さらに1946年(昭和21年)の財産税によって、李垠の家計は非常に困難となった。またこの年には李王職が廃止され、李王職が保持していた公家の住居などの不動産は王公族に分配された。 1947年(昭和22年)5月2日の皇室令及附屬法令廢止ノ件で「王公家軌範」が廃止され、5月3日の日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律(昭和22年法律第72号)の発効で「王公族ノ権義ニ関スル法律」「王公族から内地の家に入つた者及び内地の家を去り王公家に入つた者の戸籍等に関する法律」(昭和2年法律第51号)が廃止されたことで、華族とともに王公族はその身分を失った。 王公族の身分喪失は華族と同様に皇族以外の貴族身分を認めない日本国憲法第14条の規定に基づくとされる説が有力ではあるが、当時は王公族はかならずしも条文の「貴族」と見られていたわけではなかった。臨時法制調査会の一員として帝国憲法改正にともなう法制整備の調査を担当していた萩原徹外務省条約局長は、王公族を貴族と解釈するには若干の疑問があると述べ、さらに「王公族は皇族にしてしまうか、又は皇族に準じた地位を与えてもよいのではあるまいか」と考えていた。新城道彦は新憲法施行により身分を喪失したというよりも、公布の前日5月2日に行われた外国人登録令の施行と同時に一般の在日朝鮮人と同様、王公族は「外国人」となり(王公族の地域籍は朝鮮と見なされていた)、合わせて身分を喪失したとしている。ただし、外国人登録令は、在日朝鮮人の法的地位を変更する規定はなく、第11条第1項で、「外国人登録令の適用について当分の間、外国人とみなす」、と規定していただけであり、この見解は妥当ではない。 その後も王公族は法的に特殊な存在であった。1949年(昭和24年)に桃山虔一と改名していた李鍵は、離婚について宮内庁に報告を行い、手続きを行っている。1950年(昭和25年)に李垠の子李玖がアメリカ留学しようとした際には大韓民国政府から旅券が発給されず、宮内庁から臨時旅券を取得しようとしたため、駐日代表部の金龍周(朝鮮語版)が非公式ながらも個人名で旅券を発給したという事例もある。 1952年(昭和27年)の平和条約の発効により、朝鮮に対する主権の放棄がされ、民事局長通達は、これにより、日本に居住していた朝鮮人の日本国籍は、喪失したとした。従って日本に居住していた旧王公族である李垠・桃山虔一の一家は日本国籍を喪失した。しかし大韓民国の李承晩大統領は旧王公族の大韓民国籍を認めず、日本に残った王公族は無国籍者となった。1957年(昭和32年)に李垠夫妻が李玖の卒業式に出席するためにアメリカに出国しようとした際も、大韓民国は旅券の発給を認めなかったため、日本政府が大学の招聘状に基づいた特別の旅行証明書を交付している。1960年(昭和33年)に李垠夫妻は日本国籍を取得した。 李承晩が失脚した後、韓国では旧大韓帝国皇室の人物の復権が進んだ。1962年(昭和35年)に朴正煕大統領は李垠夫妻の大韓民国籍を回復させ、1963年(昭和36年)には生活費の送金を開始した。同年12月には李垠夫妻が韓国にわたった。
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