島での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 04:38 UTC 版)
近年の解説者のほとんどが、セント・キルダにおける生活の第一のテーマは「孤立」であると認識してきた。マーティン・マーティンが1697年に島を訪れたとき、海を渡る唯一の手段は甲板のない船で、手漕ぎと帆走で数日間かかり、秋から冬にかけてこうした旅は不可能だった。全ての季節を通じて高さ12mまでの波がヴィレッジ湾を打ちのめし、穏やかな天候の日であっても海水で滑りやすい岩の上に着岸するしかなく危険であった。距離と天候で他とは隔絶され、島の住民は本土や国際政治についてわずかしか知らなかった。1746年のカロデンの戦い後、小僭王チャールズ・エドワード・ステュアートと、彼の側近である年長者のジャコバイトの一部が助けられてセント・キルダへ逃亡したという噂が流れた。遠征が行われ、やがてイギリス軍兵士たちがヒルタ島へ漂着した。彼らが見つけたのは寂れた村であった。同時に島民たちは兵士たちを海賊と勘違いし、島の西にある洞窟へ避難していた。島民たちが洞窟から出てくるよう説得されると、兵士たちは、孤立した島で育った人々が小僭王のこともジョージ2世のことも聞いたことがないという事実を知った。 19世紀後半ですら、島民たちはコナシェアの頂上でかがり火をたき、沖合を通過する船がそれを見つけることを期待するか、セント・キルダのメイルボート(St Kilda mailboat)を利用するしか、世界の他の場所と通信する方法はなかった。このメイルボートは、1877年に島を訪れたジョン・サンズが発明した。サンズの滞在中、9人の水兵を乗せたままオーストリアの船が難破した。また、2月までに島への供給は滞っていた。サンズは、Peti Dubrovacki号から引き上げられた救命ブイにメッセージをくくりつけ、海へ投げ込んだ。9日後、メッセージはオークニー諸島のビルセーで拾われ、救助の手はずが整えられた。サンズの発案を踏襲した島民は、木片で船の形をつくり、ヒツジの革でできた浮き袋をくくりつけ、その中にメッセージ入りの小さな瓶や缶を入れた。風が北西から吹くとメールボートが海中に投じられ、メッセージの2/3はスコットランド西岸で発見されるか、ノルウェーで発見されることもあった。 セント・キルダでの生活のもう一つの特徴は、食であった。島民はヒツジとわずかなウシを育て、限られた量の食用作物(オオムギやジャガイモ)をヴィレッジ湾にある水はけの良い土地で育てていた。サミュエル・ジョンソンは18世紀に、「セント・キルダ住民はヒツジの乳からわずかなチーズをこしらえていた。」と報告している。彼らは全般的に釣りを避けていた。周辺の海は荒海であり、天候が予測不可能だったからである。彼らの食料供給の主力は、豊富な海鳥、特にカツオドリとフルマカモメであった。島民は海鳥の卵を採り、幼鳥の肉を新鮮なうちでも貯蔵しても食べた。ツノメドリの成鳥も、野鳥捕獲の囮とするため捕まえた。しかし、島民のこうした生活は相当な代償を払ったものだった。1799年にヘンリー・ブロアムが島を訪れたとき、「腐った魚や、あらゆる種類の悪臭、海鳥の汚物が化合して、ほとんど耐え難いほどの悪臭となって空気中に万延している。」と記している。1877年、サンズによってTaigh an t-Sithiche(妖精の家を意味する)が発掘されると、様々な石器の中からカツオドリ、ヒツジ、ウシ、カサガイの遺骸が出てきた。建物は1700年前から2500年前のもので、セント・キルダ住民の食は千年かけて少しずつ変わっていったことを示唆している。道具は確かにセント・キルダ住民の使用したものであった。同様の道具がまだ使用されているばかりか、それらに名前が書かれていたのである。 こうした野鳥捕獲活動にはクライミングのかなりの能力を必要とした。特に険しい海食柱に登らねばならなかったからである。重要な島の伝統として、ミストレス・ストーン(Mistress Stone)がある。Ruival北西の小さな渓谷からぶら下がった岩の上で、ドア状の開口部である。島の若者たちは自分自身が妻を娶るにふさわしいかどうか証明するため岩場で儀式を行う必要があった。マーティン・マーティンは以下のように記している。 村から南、岩に面したところに、ミストレス・ストーンの名で知られる有名な石があった。それは正確に言えばドアに似ていた。この岩は非常に目の前に迫っており、高さは垂直で120から180フィートあった。その姿は1マイルの距離があっても識別可能だった。このドアの楣の上に立って、全ての求婚者は古くからの慣習に従い、彼の恋人の彼に対する愛のため、自らの愛の証を示す栄誉を得た。彼は左足だけで半身を支えて岩の上に立った。さらに彼は右足を左側に出し、この姿勢でお辞儀をした。彼はさらに両手の拳を右足の方に出した。これらの行動を終え、世界で最も素晴らしい恋人にふさわしい人物だと証明された後も、彼がどんな小さな評判も得ていないことは常であった。島民たちは、ミストレス・ストーンで成し遂げたことが常に望み通りの成功を伴うのだと、固く信じていた。これは島での習慣であり、住民のうちの一人が非常に大真面目に、私が島を去る期日を教えてくれるよう頼んできた。彼は、私が島を去る前にこの行事を見られると思い、勇気を見せようとこの習慣を実行しようとしたのだ。私は彼に、同時に自分の命と自分の恋人を失ってしまうであろうこの行いは、私にとって逆効果となるだろうと話した。 セント・キルダでの生活のもう1つの側面は、毎日の「議会」であった。これは、朝の祈りの後、村の通りで開催された朝の会議である。会議には成人男性全員が出席し、一日の活動を決めていた。誰も会議を主導せず、全員が発言権を持っていた。スティールによれば(1988年)、「議論は頻繁に住民の不和のもととなったが、地域社会の恒久的な分裂をもたらすほどの苦い確執がこれまでの歴史に残ったことはない。」。自由社会のこの概念は、2004年10月から使用されているスコットランド議会の建物を設計したカタルーニャ人建築家、エンリック・ミラジェスのヴィジョンに影響を与えた。 どんな窮乏にあっても、セント・キルダ住民はいくつかの点で幸運だった。隔離された場所での生活は、他の場所で生活した場合に経験する弊害から免れていたからである。マーティンは1697年に指摘している。「真の自由の快適さを感じている、世界でほぼただ一つの住民だとして、一般的な人類よりも幸福そうな人々」であったと。そして19世紀には、セント・キルダ住民の健康と幸福さはヘブリディーズ住民のそれと好意的に比較された。彼らの社会はユートピア的なものとは異なっていた。島民は自らの資産を守るための独特の鍵を持っており、金に関する犯罪は軽犯罪とされていた。それにもかかわらず、セント・キルダ住民が戦争で戦ったことが知られておらず、島民が犯した重罪について4世紀間にわたって記載がされていない。
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