島での暮らし、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:36 UTC 版)
「トーベ・ヤンソン」の記事における「島での暮らし、晩年」の解説
ヴィヴィカとの交際が終わったのち、1947年にブレッドシャール島で生活するようになった。ラルスの協力で「風配図」を呼ぶ小屋を建て、旗にはムーミンを描いた。島の暮らしは平安をもたらしたが、次第に住む人数が増えて手狭になった。1955年にフィンランド芸術協会のクリスマスパーティでトゥーリッキ・ピエティラと出会い、1956年にトゥーリッキはブレッドシャール島のトーベの住まいを訪れた。トーベとトゥーリッキは芸術の方向性が異なっていたが人生の価値観は共通しており、同棲生活を始めた。2人とも手作業を好み、旅行やビデオ撮影、のちには縮尺模型を共通の趣味とした。ムーミンの人気によってブレッドシャール島への記者やファンの訪問が増えると、トーベとトゥーリッキは離れ小島のクルーヴ島(フィンランド語版)に小屋を建てて移り住んだ。2人は夏をクルーヴ島ですごし、冬はヘルシンキのアトリエで寝泊まりしながら制作した。 1960年から画家としての再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた。1960年代末から大人向けの小説の執筆が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した。それまでの作品を演劇、映画、テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した。1971年フジテレビ放送のアニメ版『ムーミン』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。1990年にはテレビ東京放送のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日した。 クルーヴ島での暮らしには不自由なことも多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた。1990年代に癌をわずらい、最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、ヘルシンキで死去した。
※この「島での暮らし、晩年」の解説は、「トーベ・ヤンソン」の解説の一部です。
「島での暮らし、晩年」を含む「トーベ・ヤンソン」の記事については、「トーベ・ヤンソン」の概要を参照ください。
- 島での暮らし、晩年のページへのリンク