台湾総督府復帰〜殉職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:04 UTC 版)
1939年(昭和14年)、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また1935年(昭和10年)に中華民国福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に客船「大洋丸」に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、「大洋丸」は五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦「グレナディアー」の雷撃で撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられる。正四位勲三等叙位叙勲。 日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
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