主な活動・エピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/01 05:08 UTC 版)
インドネシア独立の英雄でもあるスカルノ大統領は、その在職が長期化するとともに、当初の清廉さを失い汚職にまみれ、盟友だったハッタ副大統領まで諫言辞任した。1965年9月に起きた親中国派によるクーデター「9月30日事件」後も米国はスカルノ続投支持の方針であったが、中島は藤原岩市(元F機関長)らとともにスカルノを排し、1966年(昭和41年)のスハルト政権誕生に力を尽くした[要出典]。 日本敗戦後、インドネシアにあった日本軍はインドネシア人へ武器を渡すことを連合国軍によって禁じられていたが、宮元静雄(元第16軍作戦参謀)らは膨大な数の武器がインドネシア側へ渡るよう密かに工作した。第16軍司令官は連合国軍によって処刑されたが、インドネシア人はこの武器で英軍、オランダ軍と戦い独立を勝ち取った。中島は、戦後この事実をインドネシア政府へ伝え、インドネシアの歴史教科書の記述を一変させている[要出典]。 名越二荒之助が東南アジアで発掘した「日本を讃える物語」の多くは、名越二荒之助、田中正明、中島慎三郎によるものであり、物語発掘のためにともに現地を取材旅行した。倉田百三門下で中島と同門の玉井顕冶等もこれに協力した。取材旅行ではフィリピン、インドネシア、マレーシア、ビルマ等現地人との通訳を中島が担当した。 中島は生前塩川正十郎や西村眞悟ら政治家との交流があり、西村は中島を「語学の達人」と絶賛している。
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