小墾田宮の「庁」とは? わかりやすく解説

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小墾田宮の「庁」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:45 UTC 版)

朝堂」の記事における「小墾田宮の「庁」」の解説

小墾田宮は、推古天皇時代それまで豊浦宮かわって603年推古11年)に造営された宮である。『日本書紀』の記述によれば、この宮は、南に宮の正門である「南門」(宮門)を構え、その北に諸大夫勤める「庁(まつりごとどの)」が左右に並びその間中央広場としてオープン・スペースの「朝庭」があり、さらにその北中央に「大門」(閤門)、その奥に推古女帝出御する「大殿」がひかえるという構造であったことが示されている。 以上述べたうちの「庁」こそ、のちの朝堂の起源考えられる施設である。なお、「朝庭」について吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペース中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている。 このような宮の構造は、608年推古16年)に隋の使節裴世清611年推古19年)の新羅使任那使の来朝に関する『日本書紀』記載からうかがわれるのである南門外側に、のちの朝集殿にあたる建物あったかどうかは不明であるが、『日本書紀』推古16年によれば門外待機していた裴世清阿倍(あへのおみ とり)と物部頼網連抱(もののべのよさみのむらじ いだき)に導かれて南門より「朝庭」に入り、隋からの贈答品特産物)をそこに置いて国書を手に二度二拝した。裴世清使節趣旨言上して立ち上がると、阿倍進み出て国書受け取った阿倍がさらに北に進んで「庁」にいる大夫大伴連昨(おおとものむらじ くい)のいるあたりまで来ると、大伴連昨は座を立って阿倍迎え国書を受けとって、大門前に設置したの上国書を置き、「大殿」にいる女帝向かって奏上した。以上が小墾田宮における隋使の儀礼であった。ここでは、外国使と天皇のあいだに、導者大夫介在していることがわかる。 吉村によれば小墾田宮は「単純な構造ながら、のちの藤原宮平城宮みられるような、都宮基本構造原型として考え」られ、熊谷公男も、この宮について、「左右対称整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」と述べている。ただし、「庁」や「朝庭」の遺構検出されていないので、その規模等については不明である。

※この「小墾田宮の「庁」」の解説は、「朝堂」の解説の一部です。
「小墾田宮の「庁」」を含む「朝堂」の記事については、「朝堂」の概要を参照ください。

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