小墾田宮の朝庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
小墾田宮は、推古天皇の時代、それまでの豊浦宮にかわって推古11年に造営された宮である。『日本書紀』の記述によれば、この宮は、南に宮の正門である「南門」を構え、その北に諸大夫の勤める「庁(まつりごとどの)」が左右に並び、その間の中央広場としてオープン・スペースの「朝庭」があり、さらにその北中央に「大門」、その奥に推古女帝の出御する「大殿」がひかえるという構造であったことが示されている。このうち「庁」はのちの朝堂の起源と考えられる施設である。 『日本書紀』推古16年条には、隋の使節裴世清が来朝した記事があり、そこに「朝庭」が登場する。それによれば、門外で待機していた裴世清が阿倍臣鳥(あへのおみ とり)と物部頼網連抱(もののべのよさみのむらじ いだき)に導かれて南門より「朝庭」に入り、隋からの贈答品をそこに置いて、国書を手に二度、二拝し、裴世清が使節の趣旨を言上して立ち上がると、阿倍臣鳥が進み出て国書を受け取った。次に、阿倍臣鳥がさらに北に進んで「庁」にいる大夫(まえつきみ)の大伴連昨(おおとものむらじ くい)のいるあたりまで来ると、大伴連昨は座を立って阿倍臣鳥を迎え、国書を受けとって、大門の前に設置した机の上に国書を置き、「大殿」にいる女帝に向かって奏上した、というものである。 この「朝庭」について吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている。 吉村によれば、小墾田宮は「単純な構造ながら、のちの藤原宮や平城宮にみられるような、都宮の基本構造の原型として考え」られ、熊谷公男も、この宮について、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」と述べている。 小墾田宮の成立は「朝庭」とよばれる王権の中枢の政務・儀礼のための新空間の誕生を意味していた。朝庭を場としておこなわれた朝政に際しては、官人の間の口頭のやりとりで案件を処理するという方式が採られた。まつりごとに関する案件を携えた官人は、担当する大夫の庁の前に進み、跪(ひざまづ)いて手を前に付いて口頭で案件を上申した。それに対し、大夫はその場で口頭で決裁したが、自分の一存で決められない事案については大王に奏上し、その際にも跪礼して決裁をあおいだ。 ただし、小墾田宮の「庁」や「朝庭」の遺構は検出されていないので、その規模等については依然不明である。
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