藤原宮とは? わかりやすく解説

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藤原宮

読み方:フジワラノミヤ(fujiwaranomiya), フジワラキュウ(fujiwarakyuu)

古代宮城持統天皇遷都


藤原宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/30 03:30 UTC 版)

藤原宮 大極殿院閤門跡
列柱は実際位置から南30メートルで標示。奥に大極殿跡(樹叢)。

藤原宮(ふじわらのみや)は、古代の日本大和の藤原の地(現在の奈良県橿原市)に営まれた宮殿である。5世紀のものと、7-8世紀694年から710年まで)のものの2つがある。

最初の藤原宮は、允恭天皇の妃、弟姫(衣通郎姫)のために造営されたと伝えられる。允恭天皇の后、忍坂大中姫は衣通郎姫の実姉で、允恭天皇の宮[1]とは別に衣通郎姫の宮が造営された。『日本書紀』によれば、衣通郎姫が藤原宮に住んだのは允恭天皇7年(418年)12月から翌8年(419年)2月まで3か月ほどのわずかな期間で、藤原宮よりも允恭天皇の宮から遠く離れた地へ移るとの衣通郎姫から允恭天皇への奏言があり、衣通郎姫の宮は河内の茅渟の地(現在の大阪府泉佐野市)へ移され、茅渟宮が営まれた[2]。これは多分に伝説的なものである。

二度目の、有名な藤原宮は、持統天皇が造った藤原京の宮である。持統天皇4年10月29日(690年12月5日)に太政大臣高市皇子が藤原宮の場所を視察し[3]、同5年10月27日に使者を遣わして新益京の地鎮祭を行い[4]、同6年5月23日に難波王を遣わして藤原宮の地鎮祭を行い[5]、同8年12月6日(694年12月27日)に天皇が藤原宮に遷った[6]。和銅3年3月10日(710年4月13日)に元明天皇が平城宮に遷るまで用いられた[7]。宮地は発掘調査されている。詳しくは藤原京を参照のこと。

異説・俗説

ヤマト政権は710年に平城京に遷都するまで阿波にあったとする阿波説では、藤原宮は二つ在って、最初の藤原宮は徳島県吉野川市鴨島町飯尾の呉郷団地南の山際、飯尾天神社辺りにあったとする。その根拠は飯尾天神社内に藤原宮を造った棟梁と伝えられる「藤原役の君」の尊像が安置されていること、藤氏神社(飯尾天神社の麓に鎮座)という天皇の宮を造ったとの伝承を持つ「工藤氏」の氏神を祀る神社が比定地近くに鎮座していること、比定地近くに「国一八幡宮」(鴨島町山路)が鎮座し、神社前の由緒書きに、「ここは昔慶雲の宮と呼ばれていた」と書かれていることである。704年(慶雲元年)、690年(朱鳥5年)10月27日に使者を遣わして新益京の地鎮祭を行ったが[8]、半ば中断していた新益京の本格的造営が、宮名も藤原宮と改めて始まった。これが二度目の藤原宮(橿原市)である。『続日本紀』には、慶雲元年(704)11月20日、「始めて藤原宮の場所を定める。宮の敷地内に入った住宅千五百戸の百姓に、身分などに応じて布を賜う」とある[9][10]

脚注

  1. ^ 允恭天皇が遠飛鳥宮へ遷都した記述は『古事記』にはあるが『日本書紀』にはない。『日本書紀』の場合、河内の丹比の地(現在の大阪府松原市)に営まれた反正天皇の丹比柴籬宮を使い続けている可能性もある。
  2. ^ 『日本書紀』巻第13、允恭天皇7年12月壬戌朔条、同8年2月条。
  3. ^ 『日本書紀』巻第13、持統天皇4年10月壬申条
  4. ^ 『日本書紀』持統天皇5年10月甲子条
  5. ^ 『日本書紀』持統天皇6年5月丁亥条
  6. ^ 『日本書紀』巻第13、持統天皇8年春12月乙卯条
  7. ^ 『続日本紀』巻第5、和銅3年3月辛酉条。
  8. ^ 『日本書紀』朱鳥5年10月甲子条
  9. ^ 藤井榮『甦る皇都阿波への旅』
  10. ^ 笹田孝至『皇都ヤマトは阿波だった』サンロータス研究所2024年、pp.308-324

参考文献


藤原宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:30 UTC 版)

藤原京」の記事における「藤原宮」の解説

藤原宮の調査結果宮城内に、宮城外の街路延長線上で同じ規格街路痕跡が見つかっている。通常宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京建設予定地ではまず全域格子状街路建設しそののち宮城位置と範囲決定してその分街路廃止した考えられるそのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。 藤原宮はほぼ1km四方広さであった周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つとそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根太さ4、50cmのの間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮発掘調査で、藤原宮から再利用したもの発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本最大規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿基壇東西約52m、南北約27m)などの建物礎石建築がなされ、中国風に日本宮殿建築でははじめて瓦を葺いた建築なされていた。 朝堂院南門列柱実際位置から北20メートル標示後背耳成山朝堂院東門列柱実際位置から北10メートル標示後背天香久山朝堂院西門列柱推定位置から北10メートル標示後背畝傍山

※この「藤原宮」の解説は、「藤原京」の解説の一部です。
「藤原宮」を含む「藤原京」の記事については、「藤原京」の概要を参照ください。

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