藤原宮の大極殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 10:24 UTC 版)
規模や内部の殿堂配置の明確な宮城としては、条坊制の採られた初の本格的都城として建設された新益京(藤原京)の藤原宮が最古である。藤原宮は、周辺京域の建設が進められたあと、北の耳成山、西の畝傍山、東の天香具山のいわゆる「大和三山」のなかに造営され、694年(持統8年)に正式に遷された宮である。発掘調査によれば、藤原宮造営は天武天皇の時代に着手されており、その造営にあたっては、南北大溝や条坊にともなう側溝が埋め立てられたのちに大極殿院の北面回廊が建設されていることから、藤原宮の大極殿造営以前に条坊道路が造成されていることが判明している。 藤原宮の大極殿は大極殿院の一郭のほぼ中央に位置している。また、大極殿院の南面にあって太政官院(のちの朝堂院)との境界をなす門(大極殿閤門(こうもん))は、藤原宮のちょうど中心に位置する。藤原宮は新益京(藤原京)のほぼ中央に位置することから、大極殿閤門は京域全体からみてその中心にあたる。ここに『周礼』考工記など漢籍にみえる都城のあるべき姿にもとづいて設計された「理念先行型の都城」をみることができる。 いずれにせよ、朝堂院(太政官院)の正殿としての大極殿が藤原宮をもって成立した点については、飛鳥浄御原宮説に立つ研究者も共通の認識に立っており、小澤毅も、原則としては、天皇の独占的な空間としての大極殿およびそれを取り囲む一郭は藤原宮において成立したとしている。 なお、天武・持統の代にあっても辺境の民を飛鳥寺の西の広場で饗応していたことが『日本書紀』より明らかであるが、文武朝にあってようやく、藤原宮の大極殿や太政官院へ移動したものと考えられる。
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