藤原宮出土木簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 08:38 UTC 版)
昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。この木簡により7世紀末には郡ではなく評と表記されていたことが判明し、郡評論争に決着が付けられた。この際、「上挟国阿波」の表記については(=上総国安房)と解釈されていた。続いて「天観上〈捄〉国道前」という木簡も発見されたが、こちらの4文字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留とされていた。
※この「藤原宮出土木簡」の解説は、「総国」の解説の一部です。
「藤原宮出土木簡」を含む「総国」の記事については、「総国」の概要を参照ください。
- 藤原宮出土木簡のページへのリンク