藤原宮の朝庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
694年(持統8年)、持統天皇は飛鳥浄御原宮より藤原宮に遷る。天皇の代ごとに宮を遷しかえる「歴代遷宮」は完全に過去のものとなり、大極殿・朝堂・宮城門は瓦葺の礎石建物となって天皇の代を越えた恒久的な施設として、「大和三山」のなかに建設された。前代にくらべ建築構造だけではなく、方形の宮城に官衙をはじめとする諸施設を計画的に包括した点でも、藤原宮は「画期的な存在」であった。藤原宮はまた、掘立柱の塀に周囲を囲まれ、その内外に濠をめぐらしている点が際だった特徴であり、さらに、この宮が周囲に広大な京域(新益京)をともなうことは、それ以上に重視されるべき特徴である。新益京(藤原京)が「日本最初の都城」と評される所以である。 小澤毅は、正方形をなす京域の中央に宮が位置し、一辺に3つずつ門を開いているという藤原宮の構造の特異性を、中国の古典『周礼』考工記の記述と完全に一致することに着目し、宮の前方に政治の場、後方に市を設けるとした『周礼』の記述のとおり、発掘調査で藤原宮北方に市の存在を示唆する木簡が見つかったことを踏まえ、一方では、モデルとなった中国の都城が、時期の近接するものに関しては見あたらない事実から、新益京(藤原京)を、現実の中国都城を直接模範としたのではなく、むしろ漢籍にみえる都城のあるべき姿にもとづいて設計された「理念先行型の都城」であったと論じている。 藤原宮の朝堂院(太政官院)の東西幅は、前期難波宮の東西幅が233.4メートルであったのに対し、230.3メートルであったから、朝堂区画の規模としては前期難波宮にわずかに及ばないものの、ほぼ同規模であったといえる。ただし、朝堂建物の梁行が前期難波宮は1棟につき6メートルないし7メートルであったのに対し、藤原宮の場合は12メートルないし14メートルであったから、その分、前期難波宮の朝庭は広さが際だったことになるが、それでも藤原宮の朝庭が広大な区画として設定されたことに変わりがない。また、大極殿そのものは飛鳥浄御原宮で新設されたとする説があるが、使用法に関しては、藤原宮以後の宮都とのあいだに違いがみられ、原則としては、天皇の独占的な空間としての大極殿およびそれを取り囲む一郭は藤原宮において成立したとされる。また、北より大極殿、朝堂12堂、朝集殿2堂の順で並ぶ形式の朝堂院は、藤原宮を始まりとする。平城宮、平安宮へと後続するスタイルの成立という意味において、藤原宮の画期性を指摘することができる。ただし、藤原宮に遷ってからも、天武・持統の代には辺境の民を飛鳥寺の西の広場で饗応していたことが『日本書紀』の記述より明らかである。饗応の場が、藤原宮の大極殿や太政官院(のちの朝堂院)へ移動するのは、文武天皇の時代を待たなければならない。 藤原宮は、新益京のなかではやや低地にあたっていた。そのため、場合によっては臣下が高い位置に居を構えることがあり、周囲からの汚物を含む排水が宮の周辺を流れることがあった。また、京域の南辺が丘陵地帯となるため、事実上、宅地としての利用が不可能であった。30年以上ぶりに再開された遣唐使が704年(慶雲元年)に帰国して唐の長安城や大明宮の情報をもたらすや、ほどなくして遷都の議がなされた。藤原宮が宮都としてかかえる問題点について話し合われたものと思われる。708年(和銅元年)には遷都の詔が発せられた。 なお、2008年の発掘調査では、藤原宮の朝庭から2条の斜行溝跡が見つかっているが、1本は宮造営段階の運河の支線、もう1本は南門造営時の排水迂回のための溝と考えられる。南北方向に走向する溝跡も2条検出しており、1本は礫敷広場のなかに設けられた通路の側溝であったと考えられるが、元来は先行する朱雀大路に附設された東側の側溝と推定される。もう1本は南門造営時の排水溝と考えられている。
※この「藤原宮の朝庭」の解説は、「朝庭」の解説の一部です。
「藤原宮の朝庭」を含む「朝庭」の記事については、「朝庭」の概要を参照ください。
- 藤原宮の朝庭のページへのリンク