藤原宮の朝堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:45 UTC 版)
規模や内部の殿堂配置の明確な宮城としては、条坊制の採られた初の本格的都城として建設された新益京(藤原京)の藤原宮が最古である。藤原宮は、周辺京域の建設が進められたあと、北の耳成山、西の畝傍山、東の天香具山のいわゆる「大和三山」のなかに造営され、694年(持統8年)に正式に遷された宮である。 なお、「藤原京」は学術用語であり、『日本書紀』では「新益京」と記されている。『日本書紀』には新益京に先だって「倭京」の名があることから、岸俊男は藤原京に先だった条坊制都城としての「倭京」があった可能性を指摘しているが、仁藤敦史は「倭京」を条坊制都城とは原理的に異なるものとして位置づけ、「天武朝以前において、地域に散在する継続的な支配拠点(宮・宅・寺・市・広場など)の総体を示す用語」であると論じている。 藤原宮の朝堂院遺構は、南北およそ600メートル、東西およそ240メートルにおよぶ最大規模のものであり、朱雀門から北に朝堂・大極殿・内裏と一直線に並ぶ「日本的形態」となっている。 宮の内部は、朝堂院中域に朝堂が12堂あり、東と西のそれぞれ6堂ずつ対称的に配置されていた。難波長柄豊碕宮朝堂の14堂以上にくらべると殿舎の数は少ないが、それぞれの規模は、 一堂 … 桁行9間(約36メートル)、梁行4間(約14メートル)、四面庇、入母屋または寄棟 二堂~四堂 … 桁行15間(約62メートル)、梁行4間(約12メートル)、二面庇、切妻造 五堂・六堂 … 桁行12間(約50メートル)、梁行4間(約12メートル)、二面庇、切妻造 であり、難波よりはるかに大きい。 また、難波長柄豊碕宮と藤原宮では、第一堂の規模・構造が他と異なり、桁行は最短でありながらも梁行は最も広くとられ、四面庇で、屋根構造でもひとつ格上の入母屋もしくは寄棟が採用されていることから、朝堂の殿舎のなかでは特別に扱われていたことがわかる。この傾向は平城宮の前半までつづいている。 いずれも基壇をもつ礎石建物であり、また、宮としては日本で初めての瓦葺の殿舎であった。
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