藤原定家との関係とは? わかりやすく解説

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藤原定家との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 04:56 UTC 版)

式子内親王」の記事における「藤原定家との関係」の解説

藤原俊成の子定家治承5年1181年正月にはじめて三条第に内親王訪れ以後折々内親王のもとへ伺候した内親王家で姉の竜寿の小間使いである家司のような仕事行っていた。定家日記明月記』にはしばし内親王に関する記事登場し、特に薨去前月にはその詳細な病状頻繁な見舞記録と共に記されながら、薨去については一年後命日まで一切触れないという思わせぶり書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであった推定できる後深草院は、西園寺実氏定家自身から聞いた内容語った話として、 いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし — 『新古今和歌集』 巻第十恋歌四 この式子内親王恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家贈ったものだと記している(しかし、新古今和歌集撰者注記によると定家はこの歌は評価はしておらず、撰者名にはない。)。こうした下地があって、やがて定家内親王秘か恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛に関する伝承や、金春禅竹代表作である謡曲定家』等の文芸作品生じたまた、そのバリエーションとして、醜い容貌定家からの求愛内親王冷たくあしらった相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた、あるいは定家の父・俊成彼等の仲を知って憂慮していた等々いくつもの説が派生したが、いずれも後代伝聞書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」とされる五輪塔石仏群が、現般舟院陵西北にある。しかし、後白河天皇より相続した白河常光院からは遙かに離れており、根拠はない。 恋愛感情とは別に定家式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香馥たり」「御弾箏の事ありと云々」と、香り音楽触れていることから、定家と言われる松浦宮物語』中の唐国姫君人物設定が、内親王由来する高貴な女性イメージ反映ではないかとの指摘もある。ただし、云々とは伝聞を示す言葉であり、直接感想ではない。

※この「藤原定家との関係」の解説は、「式子内親王」の解説の一部です。
「藤原定家との関係」を含む「式子内親王」の記事については、「式子内親王」の概要を参照ください。

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