藤原定家との関係
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藤原俊成の子・定家は治承5年(1181年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で姉の竜寿の小間使いである家司のような仕事を行っていた。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。 後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた内容を語った話として、 いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし — 『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四 この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだと記している(しかし、新古今和歌集撰者名注記によると定家はこの歌は評価はしておらず、撰者名にはない。)。こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』等の文芸作品を生じた。また、そのバリエーションとして、醜い容貌の定家からの求愛を内親王が冷たくあしらった、相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた、あるいは定家の父・俊成も彼等の仲を知って憂慮していた等々、いくつもの説が派生したが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵の西北にある。しかし、後白河天皇より相続した白河常光院からは遙かに離れており、根拠はない。 恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり」「御弾箏の事ありと云々」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘もある。ただし、云々とは伝聞を示す言葉であり、直接の感想ではない。
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