藤原宮子尊号問題
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神亀元年(724年)2月、24歳になった首皇太子は元正天皇から譲位を受けて即位し、聖武天皇となった。同時に即位に伴なう叙位任官で、皇親の長屋王は従二位右大臣から正二位左大臣になったが、2日後に出された勅で天皇の母である宮子夫人を「大夫人」(おおみおや)と尊称せよ、とあった。 これに対し、左大臣に就任したばかりの長屋王らは、翌月以下のように申し出た。「二月四日の勅を伏して見ると、藤原夫人は天下みなこれ大夫人と称せよとのことでございますが、臣ら、謹んで公式令を調べますれば、称号は皇太夫人と称することになっています。先頃の勅号を奉じますと、皇の文字が失われ、また令によりますと、違勅になることを恐れます。いかに定めればよいのか分かりませんので、伏してお指図を仰ぎたいと思います」 天皇は詔を出し、文章では、「皇太夫人」とし、読むときは「大御祖」(おおみおや)とし、先の勅を退けることにした。 この事件は、長屋王が聖武天皇および藤原氏から好ましくない人物とみられる一因になったと思われる。 その後、数年、表だっては何事もなく過ぎ去り、中納言巨勢邑治の病没、藤原武智麻呂の妻の伯父にあたる阿倍広庭が参議に加わり、長屋王の側にいた大伴旅人は大宰帥として九州に赴任させられている。
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