藤原師綱との諍い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:44 UTC 版)
康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季春、または季治)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季春(季治)は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季春(季治)の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。
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