藤原広嗣の乱と東国行幸とは? わかりやすく解説

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藤原広嗣の乱と東国行幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:44 UTC 版)

彷徨五年」の記事における「藤原広嗣の乱と東国行幸」の解説

天平12年8月29日九州大宰府にいた藤原広嗣聖武上表文提出し、「時政得失」と「天地災異」を指摘し下道真備玄昉排除するよう主張した聖武政府はこれを反乱断定し9月3日には大野東人大将軍とする征討軍を編成し派遣することを決めた大宰少弐であった広嗣が九州各地から集めた反乱軍東人征討軍は10月初めに北九州板櫃川対峙し、都から派遣され勅使と広嗣が問答行い返答窮した広嗣自身退却したため反乱軍戦わずして鎮圧された。この報告10月9日平城聖武元に届いた。この報告受けた聖武東国行幸の手配を開始し10月19日行幸先の天皇宿舎整備する伊勢国行宮司を任命10月23日行列随行する官人指名され騎兵400騎が招集された。10月25日には征西大将軍大野東人対し、「まだその時ではないが、思うことがあって出立する」という勅が下された平城京留守官には知太政官事鈴鹿王兵部卿藤原豊成任命され10月29日平城京出発した。この行幸には当時政権の主班であった橘諸兄はじめとして多数の上官吏皇族付き従った一行大和出て11月1日伊賀、翌2日には伊勢入り伊勢神宮勅使派遣したが、この地で「10月23日に広嗣がとらえられた」という報告を受け広嗣を処断すべしとの指示を出す。11月21日伊勢国赤坂において陪従する文武百官対し大々的叙位行った12月1日美濃不破到着、ここで随伴してきた騎兵部隊解散させ平城京に帰らせた。ここまでルート壬申の乱大海人皇子たどった道を追体験したという説が有力である。12月5日不破発し近江入った聖武6日新都準備のため橘諸兄山城の相楽郡恭仁郷へ先発させた。12月15日聖武は恭仁の地に至り元正太上天皇当日恭仁の地に入り続日本紀に「初め京都作る」と記録される

※この「藤原広嗣の乱と東国行幸」の解説は、「彷徨五年」の解説の一部です。
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