藤原広嗣の乱と東国行幸
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天平12年8月29日九州の大宰府にいた藤原広嗣が聖武に上表文を提出し、「時政の得失」と「天地の災異」を指摘し、下道真備と玄昉を排除するよう主張した。聖武と政府はこれを反乱と断定し9月3日には大野東人を大将軍とする征討軍を編成し派遣することを決めた。大宰少弐であった広嗣が九州各地から集めた反乱軍と東人の征討軍は10月の初めに北九州の板櫃川で対峙し、都から派遣された勅使と広嗣が問答を行い、返答に窮した広嗣自身が退却したため反乱軍は戦わずして鎮圧された。この報告は10月9日に平城の聖武の元に届いた。この報告を受けた聖武は東国行幸の手配を開始し、10月19日に行幸先の天皇の宿舎を整備する造伊勢国行宮司を任命、10月23日に行列に随行する官人が指名され騎兵400騎が招集された。10月25日には征西大将軍大野東人に対し、「まだその時ではないが、思うことがあって出立する」という勅が下された。平城京の留守官には知太政官事鈴鹿王と兵部卿藤原豊成が任命され、10月29日に平城京を出発した。この行幸には当時の政権の主班であった橘諸兄をはじめとして多数の上級官吏・皇族が付き従った。一行は大和を出て11月1日に伊賀、翌2日には伊勢に入り伊勢神宮に勅使を派遣したが、この地で「10月23日に広嗣がとらえられた」という報告を受け広嗣を処断すべしとの指示を出す。11月21日伊勢国の赤坂において陪従する文武百官に対し大々的な叙位を行った。12月1日に美濃の不破に到着、ここで随伴してきた騎兵部隊を解散させ平城京に帰らせた。ここまでのルートは壬申の乱で大海人皇子がたどった道を追体験したという説が有力である。12月5日に不破を発し近江に入った聖武は6日に新都の準備のため橘諸兄を山城の相楽郡恭仁郷へ先発させた。12月15日聖武は恭仁の地に至り、元正太上天皇も当日恭仁の地に入り、続日本紀に「初めて京都を作る」と記録される。
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