評制の実施
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「評」は、国造のクニを分割・再編しながら、大化・白雉年間(645~654年頃)に全国的に実施されたと推測されている。それまで国造や県主だったり、部民や屯倉を管理していた地方豪族のうち、有力者が評家(こおりのみやけ)を建て、評の官人(評造・評督・助督)となった。 宣化天皇3年(538年)、大伴磐は大伴金村の子で、任那を救援した後、甲斐国山梨評山前邑に任地(『古代豪族系図辞典』)。 永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために碑を建て、国宝那須国造碑として現存する。 藤原京(694~710年)から「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と記された荷札として付けられた木簡が見つかっている。 九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国頴娃郡(えいぐん、『続日本紀』文武4年六月庚辰条)か、「久須評」はのちの豊後国玖珠郡(くすぐん、大宰府政庁跡出土木簡)、「日向国久湯評」は後の児湯郡(こゆぐん、藤原京跡出土木簡)等の、後の郡と繋がる評名が知られる。「山部評」「豊評」(福岡市井尻B遺跡出土瓦)などの後の史料に現れない郡レベルの行政単位が記されたものも見つかっている。 評に関する最古の史料は法隆寺旧蔵金剛観音菩薩像の銘文である。その銘文中に、辛亥年(651年)笠評君大古のために造像した旨が記されている。 奈良県明日香村石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 - 評 - 五十戸(五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。 藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡によると、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られる。『日本書紀』斉明五年(659年)に「於友郡」(おうぐん)とあるが、意宇郡の前身としての於友評のことで、評制度が7世紀半ばの早い段階に置かれていたことが分かる。 出雲国国庁跡と推定されている松江市大草町にある六所神社周辺の発掘で、多数の遺構・遺物とともに「大原評□磯部安□」と記された木簡が出土している。 奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土した木簡に「吉備道中国加夜評/葦守里俵六□」と記されていた。この木簡には年紀がないが、伴出遺物から7世紀末のものと推測される。そして「加毛評柞原里」と記された木簡が出土している。山陽地方にも評里制が実施されていたことが分かる。 隠岐国の評については、飛鳥や藤原・平城京に送られた海産物などに付けた評・郷・里名、負担者名、物品名などの木簡が多量に発見されている。島前に知夫利(ちぶり)評・海評、島後に次(すき)評・衣地(えち)評が置かれた。知夫利評(郡)を例にとると、評制(~701年)では、知夫利評 - 由羅五十戸、三田里、 郡里制(701~717年)では、知夫利郡 - 由良里、 郡郷里制(717~740年)では、知夫郡 - 宇良郷 - 白浜里、由良郷、美多郷 - 美祢里、大結郷 - 前野里、安吉里、 郡郷制(740~年)では、宇良郷・由良郷・美多郷・大井郷、 『和名抄』では宇良郷・由良郷・三田郷 のような編成だった。 「加毛評柞原里」(かもひょう みはらのり)と記された木簡が奈良県飛鳥池遺跡から出土し、山陽地方にも評制や里制が実施されていたことが分かる。この評里制にやや遅れて、7世紀末には安芸国・備後国も誕生した。 藤原・平城の宮跡で調の貢進時に付けた木簡がたくさん出土している。そのなかに山口県の「熊毛評」と記された木簡がみつかっている。 飛鳥池遺跡からの出土木簡に伊予国の湯評(「湯評伊波田人葛木部鳥」)・久米評・藤原宮出土木簡に宇和評(「宇和評小□代熟」)などと記されていた。 1999年(平成11年)11月、大阪市中央区前期難波宮跡から「戊申年」(648年)の紀年銘木簡の他に「秦人国評」などの木簡が出土している。この時期に評が建て始められたと考えられる。 699年(文武3年)、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県らが肥人(ひひと、九州西部の島嶼部の人々)を従えて覓国使(べっこくし、南九州に令制国設置と南島路の開拓を進めるための朝廷からの使い)を剽却(ひょうきょう)する事件が起こった。このことから7世紀末には南九州に衣評という評が設定されていることが分かる。 『播磨国風土記』「穴禾郡比治里」(しそうぐんひじのさと)の条に難波長柄豊前天皇(孝徳天皇)の御代に揖保郡と穴禾郡とを分けたとの記事がある。「郡」ではなく「評」である。また、天智天皇の庚午年(670年)や持統天皇の庚寅年(690年)に戸籍や里が整備されていったと記されている。国評里の制度が次第に整備されていったことが分かる。飛鳥池遺跡や藤原宮跡などから丹波国の多紀郡を「多貴評」、播磨国の飾磨郡を「志加麻評」、穴栗郡を「穴栗評」、神埼郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記している木簡が見つかっている。
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