評制の実施とは? わかりやすく解説

評制の実施

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 05:27 UTC 版)

「評」の記事における「評制の実施」の解説

「評」は、国造クニ分割再編しながら、大化白雉年間645654年頃)に全国的に実施されたと推測されている。それまで国造県主だったり、部民屯倉管理していた地方豪族のうち、有力者評家こおりのみやけ)を建て、評の官人評造評督助督となった宣化天皇3年538年)、大伴磐大伴金村の子で、任那救援した後、甲斐国山梨山前邑に任地(『古代豪族系図辞典』)。 永昌元年689年)、那須国造評督に任ぜられた那須直葦提の事績息子意志麻呂らが顕彰するために碑を建て、国宝那須国造碑として現存する藤原京(694~710年)から「上毛野国車評桃井大贄」と記され荷札として付けられ木簡が見つかっている。 九州でも評制施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国頴娃郡(えいぐん、『続日本紀』文武4年六月庚辰条)か、「久須評」はのちの豊後国玖珠郡(くすぐん、大宰府政庁出土木簡)、「日向国久湯評」は後の児湯郡(こゆぐん、藤原京出土木簡)等の、後の郡と繋がる評名が知られる。「山部評」「豊評」(福岡市井尻B遺跡出土瓦)などの後の史料現れない郡レベル行政単位記されたものも見つかっている。 評に関する最古の史料法隆寺旧蔵金剛観音菩薩像銘文である。その銘文中に辛亥年(651年)笠評君大古のために造像した旨が記されている。 奈良県明日香村石神遺跡平成14年2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構東西大溝から他の遺物とともに木簡出土した。その木簡中に乙丑年(天智4年665年)に国 - 評 - 五十戸五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織全国行き渡っていたことを示すものがあった。 藤原宮跡出雲国庁跡出土木簡によると、出雲評縫評・大原評などの存在知られる『日本書紀』斉明五年(659年)に「於友郡」(おうぐん)とあるが、意宇郡前身としての於友評のことで、評制度が7世紀半ば早い段階置かれていたことが分かる出雲国国庁跡推定されている松江市大草町にある六所神社周辺発掘で、多数遺構・遺物とともに大原評□磯部安□」と記され木簡出土している。 奈良県明日香村飛鳥遺跡から出土した木簡に「吉備道中国加夜評/葦守里俵六□」と記されていた。この木簡には年紀がないが、伴出遺物から7世紀末のものと推測される。そして「加毛評柞原里」と記され木簡出土している。山陽地方にも評里制が実施されていたことが分かる隠岐国の評については、飛鳥藤原平城京送られ海産物などに付けた評・郷・里名、負担者名、物品名などの木簡多量に発見されている。島前に知夫利(ちぶり)評・海評、島後に次(すき)評・衣地(えち)評が置かれた。知夫利評(郡)を例にとると、評制(~701年)では、知夫利評 - 由羅五十戸三田里、 郡里制(701717年)では、知夫利郡 - 由良里、 郡郷里制717740年)では、知夫郡 - 宇良郷 - 白浜里、由良郷、美多郷 - 美祢里、大結郷 - 前野里安吉里、 郡郷制(740~年)では、宇良郷・由良郷・美多郷・大井郷、 『和名抄』では宇良郷・由良郷・三田のような編成だった。 「加毛評柞原里」(かもひょう みはらのり)と記され木簡奈良県飛鳥遺跡から出土し山陽地方にも評制や里制が実施されていたことが分かる。この評里制にやや遅れて7世紀末には安芸国備後国誕生した藤原平城の宮跡で調の貢進時に付けた木簡がたくさ出土している。そのなかに山口県の「熊毛評」と記され木簡みつかっている。 飛鳥遺跡からの出土木簡伊予国の湯評(「湯評伊波田人葛木」)・久米評・藤原宮出土木簡宇和評(「宇和評小□代熟」)などと記されていた。 1999年平成11年11月大阪市中央区前期難波宮跡から「戊申年」(648年)の紀年銘木簡の他に「秦人国評」などの木簡出土している。この時期に評が建て始められたと考えられる699年文武3年)、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県らが肥人(ひひと、九州西部島嶼部人々)を従えて国使(べっこくし、南九州令制国設置南島路の開拓進めるための朝廷からの使い)を剽却(ひょうきょう)する事件起こった。このことから7世紀末には南九州に衣評という評が設定されていることが分かる。 『播磨国風土記』「穴禾郡比治里」(しそうぐんひじのさと)の条に難波長柄豊前天皇孝徳天皇)の御代揖保郡と穴禾郡とを分けたとの記事がある。「郡」ではなく「評」である。また、天智天皇庚午年(670年)や持統天皇庚寅年(690年)に戸籍や里が整備されていった記されている。国評里の制度次第整備されていったことが分かる飛鳥遺跡藤原宮跡などから丹波国多紀郡を「多貴評」、播磨国飾磨郡を「志加麻評」、穴郡を「穴評」、神埼郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記している木簡が見つかっている。

※この「評制の実施」の解説は、「評」の解説の一部です。
「評制の実施」を含む「評」の記事については、「評」の概要を参照ください。

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