評判と影響
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「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「評判と影響」の解説
グリスウォルドの選集『アメリカの詩人と詩』は当時としてこの種のものでは最も包括的なものだった。評論家のルイス・ゲイロード・クラークはグリスウォルドの本が「我々の年代と国の恒久的普及の文学に組み入れられるようになる」と予測すると言っていた。この選集でグリスウォルドは1840年代から1850年代にそこそこの評判を築き上げた。その初版は6か月の間に3度刷を重ねた。しかし、掲載した詩人の選択については、時として問題にされた。あるイギリスの編集者がこの選集を照査して、「2、3の例外を除き、合衆国全体で注目すべき詩人は居ない」と結論付け、この選集について、「大西洋の向こうのミューズ(詩神)に仕える苦難の中でも最も目立つ行動」だと言った。仮にそうだったとしても、この本は人気を博し、グリスウォルド死後もリチャード・ヘンリー・ストッダードの手によって数回の版を重ね続けさえした。 さらに近年にあっては、『アメリカの詩人と詩』は、それに選ばれた詩人がその後に注目されなくなっていったので、「詩人の墓場」とまであだ名された。文学史家のフレッド・ルイス・パティは「死んでいる...あらゆる蘇生をこえている」とまで記した。パティは、この本を「詩のゴミの集まり」であり「無価値のものの集まり」とも言った。 当時のアメリカ文学シーンの中で、グリスウォルドは突飛で、独善的で、うぬぼれで、悪意ある者と見られた。歴史家のペリー・ミラーは、「グリスウォルドは悪賢さの時代に来たのと同じくらい悪賢くあろうとしている。彼が実際に存在していると証明できる十分な書類もなく、我々は彼がチャールズ・ディケンズのもっともらしくもない発明の1つと想像することもできる」と記した。後の『アメリカの散文詩人』や『アメリカの女流詩人』のような選集は、グリスウォルドを文学の独裁者にすることに役立った。彼の力が大きくなるのを恐れながら、詩人はその承認を求めた。しかし、彼に印象を与えようとしたとしても、幾人かの詩人はグリスウォルドの性格について意見を出した。アン・S・スティーブンスは彼を2つの顔を持つものと呼び、「うまれつき真実を語れない」ものだと言った。グリスウォルドの友人であっても、彼が全くの嘘つきであることを知っており、「それはグリスウォルドのこと? あるいは真実?」というような言い方があった。別の友人は「私が出逢った中で最も怒りっぽく悪意がある男の一人」と呼んだことがあった。作家のコーネリアス・マシューズは1847年に、グリスウォルドは作家を利用するために釣り上げているのだと記し、「哀れで小さく無垢の魚は」「グリスウォルドの釣り針を」避けなければならないと警告していた。1843年1月28日、フィラデルフィアの「サタディ・ミュージアム」に匿名で掲載されたグリスウォルドの選集に関する書評の1つは、ポーが書いたものと考えられており、「グリスウォルドの運命はどうなるのか? 忘れられるのか、彼が傷つけ侮辱した者達による場合を除いて、彼は忘却の彼方に沈んでいく。彼が存在したと告げる印を残すこともなく。あるいは、彼が今後も語られるとすれば、その信頼を悪用した不誠実な従僕として述べられるかである」と書かれていた。 グリスウォルドのことを「馬鹿で、さらにはごろつき」だと言っていたジェイムズ・ラッセル・ローウェルは、その風刺詩『評論のための寓話』の中でグリスウォルドの性質について次のような詩を作っていた。 But stay, here comes Tityrus Griswold, and leads onThe flocks whom he first plucks alive, and then feeds on—A loud-cackling swarm, in whose feathers warm dressed,He goes for as perfect a — swan as the rest. しかし、留まれ。専制者グリスウォルドが来て導く彼が最初に生きたまま毛をむしり取り、餌を与える群れは煩く泣き声を上げる群れであり、その羽根は暖かく覆っている彼は残りのものを白鳥ほど完全に求めていく グリスウォルドは、イギリスの詩に加えてアメリカの詩を学校の生徒に教えることを提唱したことでは、最初期の者だった。その選集の1つ『学校で使うためのアメリカの詩における読み』は特にその目的で作られた。アメリカの詩に関するその知識は、1850年以前に出版されたアメリカの詩全て、推計500冊を読んできたという主張で強調された。雑誌「グラハムのマガジン」の寄稿者の1人は、「彼は、その言葉が許す限り、我々が知っている誰よりも文学の愛好者である」と書いていた。「ピルグリムが上陸して以来、彼の疲れを知らぬ研究を逃れた主題について、何かを書いたという男あるいは女はいない」とも書いていた。オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアはグリスウォルドの研究した文学が、「その対象が作家である種の博物学者、その記憶はインクを食べているあらゆる飛びあるいは這っているものの完全な動物相である」と言っていた。 エバート・オーガスタス・ダイキンクは、「(国民文学の)思想は、モノマニア(偏執症)の力と共にグリスウォルドの心に入り、占有したように見える。」とコメントした。詩人のフィリップ・ペンドルトン・クックは、グリスウォルドの誠実さを問題にして、彼は「それを言うよりも愛するべきだった」と言っていた。1850年代までに、グリスウォルドの文学愛国主義は幾らか衰え、イギリス、フランス、ドイツからの文学を読む、より人気のある傾向に従うようになった。かれは「全く新しい文学を生み出すというような愚かな言い方」から断絶するようになった。 グリスウォルドは国際的な著作権の確立を公然と支持していたが、彼自身は編集者として当時の作品全体を盗用することが多く、特に雑誌「ブラザー・ジョナサン」がそうだった。当時の編集者は彼に付いて「彼が『不道徳、不公正、邪悪』だと宣言する最新のものを利用しており、やかましく説教する一方であっても、最速のものを盗用していた」と語っていた。たとえそうであっても、彼は1844年春にアメリカ合衆国議会で著作権法の必要性を議論するときは、出版業を代表するべく選ばれていた。
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