風刺詩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:34 UTC 版)
詩は風刺の強力な媒体にもなりうる。韻文で表された侮辱の一撃は、散文で言われもしくは書かれたものより格段に強力かつ記憶に残りやすいものになりうる。古代ローマ人は風刺詩の強い伝統を有しており、しばしば政治的な目的で書かれた。有名な例としては詩人ユウェナリスの風刺詩があり、その侮辱は社会のあらゆる範囲を刺した。 イギリスの風刺の伝統にも同じことが言える。当時の加熱した政治状況に巻き込まれ、かつての友人であったホイッグ党のトマス・シャドウェルに風刺されたトーリー党のジョン・ドライデン(最初の桂冠詩人)は、1682年に『マクフレクノー』、副題「真の保守プロテスタント詩人T.S.の風刺」という、英語で書かれた息の長い罵詈雑言作品としては最も偉大なものの1つを著した。この中で、当時既に故人であった実に凡庸な詩人リチャード・フレクノーは「絶対的ナンセンスの全ての領域の」支配者として「統治し、ウィットに対する永遠の戦争を遂行する」べく誰を自身の後継者にすべきか熟考していると描かれた。 第2代ロチェスター伯のジョン・ウィルモットもまた17世紀イギリスの風刺詩の名手であり、『人類に対する風刺』(1675) や『チャールズ2世の風刺』などの容赦ない風刺で知られた。アレキサンダー・ポープも風刺詩で知られ、『批評論』(1709) において批評家たちをたしなめたのは有名である。ドライデンとポープは叙事詩の書き手であったので、その風刺のスタイルも叙事詩的なものであった。とはいえ、風刺詩にはこれといった決まった形式はない。 イギリス以外での偉大な風刺詩人としてはポーランドのイグナツィ・クラシツキ (en:Ignacy Krasicki)、アゼルバイジャンのサビール、ポルトガルのマヌエル・マリア・バルボサ・ド・ボカージェなどが挙げられる。 日本でも平安時代より諷意を含む狂歌が書かれ、匿名で狂歌を掲示して政治批判などを行う「落首」の慣行があった。一例として寛政の改革を諷した「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」が知られている。現代でも風刺的な川柳が広く詠まれている。
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