衣通姫
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衣通姫(そとおりひめ[1]、そとほりひめ[1]、そとおしひめ)は、記紀にて伝承される女性。『日本書紀』では
記紀の間で衣通姫の設定が異なる。
『古事記』には、允恭天皇皇女[1]の
『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の実妹・
允恭天皇の宮は『古事記』には遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)へ遷都した記述があるが、『日本書紀』にはない。『日本書紀』の場合、反正天皇の宮であった河内の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや、現在の大阪府松原市)を使い続けている可能性もある。また、遠飛鳥については大和・河内のいずれであるか意見が分かれ、大和の場合は現在の奈良県高市郡明日香村、河内の場合は現在の大阪府羽曳野市などにあたる。茅渟宮の場所はのちに河内から分割された和泉の日根郡上之郷に比定されており[2]、允恭天皇の宮の場所が大和飛鳥・河内飛鳥・河内丹比のいずれであっても、允恭天皇の宮からの距離は藤原宮よりも遠くなる。
紀伊で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されている[1]。
脚注
関連項目
衣通郎姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 12:03 UTC 版)
即位7年、天皇は皇后の妹の弟姫を妃にしようとした。弟姫はその美しさが衣服を通り抜けて光っている程だという意味で衣通郎姫と呼ばれていた。しかし皇后は妹の入内に不快感を示し、衣通郎姫自身も姉を慮って入内を拒否した。天皇は烏賊津使主(いかつのおみ)を送って衣通郎姫を説得させた。烏賊津使主は庭に伏せ、懐に隠した糒を食べて飢えを凌ぎながら七日七晩動かなかった。とうとう折れた衣通郎姫は入内を承諾したが、宮中とは別に藤原宮(奈良県橿原市)に住まった。翌年2月、衣通郎姫は皇后の嫉妬を理由にさらに遠方の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移った。天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に行幸を続けた。即位10年に皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。 以上が『日本書紀』の記す衣通姫伝説であるが『古事記』には記載がない。『古事記』は天皇の娘の軽大娘皇女を衣通郎女、または衣通王としている。
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