皇后の嫉妬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 11:03 UTC 版)
即位2年3月、葛城襲津彦の娘で武内宿禰の孫にあたる葛城磐之媛を皇后とした。難波を拠点とする天皇にとって、大和を押さえる葛城氏は重要な同盟者だった。磐之媛は去来穂別尊、瑞歯別尊、雄朝津間稚子宿禰尊を生み、それぞれが履中天皇、反正天皇、允恭天皇となった。以降、葛城氏は皇室の外戚として政権内で強大な権力を握った。しかし仁徳天皇は他にも多くの妃を持っていた。なおかつ皇后の磐之媛命は嫉妬深い人物だったため、女性関係に悩むことになった。『古事記』によると黒日売という美人が妃として宮中に召されたが、皇后の嫉妬を受け実家の吉備に逃げ帰ったという。 即位16年、女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが皇后の嫉妬が強くて召し上げられず嘆いた。 即位22年、今度は異母妹の八田皇女を妃にしようとしたが、またしても皇后の反対でかなわなかった。8年後の9月、皇后が宴のための御綱柏を取りに木国へ出かけた隙をついて天皇はついに八田皇女とまぐわってしまった。帰路、このことを伝え聞いた皇后は捕った葉を全て捨てた。そうとは知らない天皇は皇后を迎えに港まで行って歌を詠んだ。 難波人 鈴船取らせ 腰なづみ 其の船取らせ 大御船取れ しかし皇后の船は港を素通りした。皇后はそのまま川を遡り山背を通って実家の葛城に帰ってしまった。そこで天皇は家臣に歌を託して皇后の機嫌を取ろうとした 山背に いしけ鳥山 いしけいしけ 我が思う妻に いしき会はむかも 皇后の心は変わらず、ついには山背の筒城岡に宮を築いて引きこもってしまった。天皇は口持臣(的臣の祖)を遣わしたが皇后は無視した。11月、ついに天皇は山背に行幸。道中で川の水に流れる桑の枝を見て、歌を詠んだ。 つのさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の木 寄るましじき 川の隈々 寄よろほひ行くかも 末桑の木 そして筒城宮の前につくと皇后に向かって歌を詠んだ つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す やが栄えなす 来入り参来れつぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の白腕 枕かずけばこそ 知らずとも言はめ それでも皇后の怒りは解けず別居状態が続いた。 即位31年1月、皇后との間に生まれた長男の去来穂別皇子を太子とした。 即位35年、皇后が5年間の別居の末に筒城宮で崩御。二年後、皇后を乃羅山に葬った。 即位38年、八田皇女を立后。 即位40年、妃として望まれた雌鳥皇女は天皇を拒絶し、使者として遣わされた隼別皇子と結婚してしまった。私事を国事に及ぼさぬよう一度は黙認した天皇だったが、増長した二人は反逆を企てるにまで至ったため激怒して誅殺した。 即位87年、崩御。「八十七年の春正月の戊子の朔(ついたち)癸卯に、天皇、崩(かむあが)りましぬ」(『日本書紀』)。「この天皇の御年、八十三歳(やそじまりみとせ)。分注-丁卯の年の八月十五日に崩(かむあが)りましき」(『古事記』)。
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