皇后になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:07 UTC 版)
魏州成安県の人。父は劉山人で、貧しい薬採りであった。 唐の乾寧3年(896年)、晋王李克用軍が魏州を攻め取った時、5歳か6歳だった劉氏は裨将の袁建豊に捕らえられ、婢女となった。李克用の側室の曹氏が劉氏を引き取って吹笙と歌舞を仕込んだ。年頃になると、晋陽で一番の美女と称された。 李存勗が晋王となった後、酒宴中に劉氏に気付き、自身の側女にした。その頃、晋王の宮には既に正妻の衛国夫人韓氏がいた上、「夾寨夫人」と称された側室の侯氏が李存勗に深い寵愛を受けていた。しかしその後、劉氏は長男の李継岌を産んで李存勗を喜ばせ、劉氏は魏国夫人に封ぜられた。また、劉氏は頭が良かった上に音曲の才もあり、寵愛がますます深まっていった。 李存勗(荘宗)が後唐の皇帝として即位すると、皇后をすぐには立てず、妻妾らは寵愛を争った。丞相豆盧革と成徳軍節度使の郭崇韜が権勢を奪われるのを恐れて、劉氏を皇后に立てるよう密奏した。 たまたま実父の劉山人が、娘の音信を知って皇宮に来た。荘宗は袁建豊を召し出した。袁建豊は「乾寧3年(896年)に成安北部の農村で、この男が懸命に夫人を抱えていました」と当時の状況を答えた。その頃、正妻の韓氏が劉氏や伊氏など側室らと寵愛を争い、自身の出自の高さを誇示した。劉氏は貧賤の出身のため恥じ入り、「父はもう乱兵に殺されました。この貧乏人は詐欺師です」と言い、父を杖刑に処させて放逐した。荘宗はこの事件を面白がり、『劉山人尋女』という劇を作った。そして自ら薬農に扮し、農村の子供の姿をさせた李継岌を連れて皇宮に入った。劉氏は激怒し、李継岌を打った。 同光2年(924年)4月、劉氏は皇后に立てられた。
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