宣下の対象とは? わかりやすく解説

宣下の対象

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 23:04 UTC 版)

女院」の記事における「宣下の対象」の解説

従来出家に伴い后妃待遇后宮職)は停止するものになっていた。ところが一条天皇の代、正暦2年991年皇太后藤原詮子落飾の際、皇太后宮職停める同時に優詔あって東三条院院号贈られ、「女院」が出現したのである初期女院号宣下后妃中でも特に国母となった者に限られ行われたが、承保元年1074年)の後冷泉天皇中宮章子内親王院号宣下二条院以後所生はなくても尊貴出自以って院号を得る例が加わった(ただし章子内親王場合新たに立后する妃のために后位空け手段として女院にされたとする説がある)。また、皇女准母立后による尊称皇后天皇配偶ではない称号のみの后)とする制度白河天皇皇女媞子内親王郁芳門院)を契機として確立すると、院号宣下対象尊称皇后にまで拡大、さらに応保元年1161年)の暲子内親王八条院)によって、后位経ず院号宣下される道も開かれた。この結果、特に内親王女院号宣下を受ける例が大幅に増えたが、原則として宣下の対象は后妃天皇生母内親王いずれかであることが前提であり、乾元元年1302年)の永嘉門院瑞子女王宗尊親王女、後宇多天皇後宮)や、応永14年1407年)の北山院日野康子足利義満室)などは非常な異例だといえる平安末期から鎌倉時代にかけて、内乱両統迭立影響され女院号宣下氾濫し一時に十数人にのぼる女院がいた。この内皇女所領相続前奏として院号与えられた例が多く見られ内親王宣下准后宣旨ののち、即日院号という場合もある。もっとも、厖大荘園群を譲られ姫宮権勢大変なもので、富を利用して政治睨みきかせた八条院宣陽門院安嘉門院などはその代表である。 その後室町時代から江戸初期にかけて、立后内親王宣下が共に途絶えその結果天皇生母のみが女院となる時代長く続いた。しかし後水尾天皇中宮徳川和子東福門院以後后からの女院復活、また内親王からの女院として孝子内親王礼成門院のような例もあったが、正親町雅子新待賢門院孝明天皇生母)を最後に明治維新時に廃止されるその後中山慶子柳原愛子それぞれ明治天皇大正天皇生母)の待遇巡り女院復活させる意見出たものの、反対論多く実現されなかった。

※この「宣下の対象」の解説は、「女院」の解説の一部です。
「宣下の対象」を含む「女院」の記事については、「女院」の概要を参照ください。

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