宣伝と政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/02 08:31 UTC 版)
「ハミルトン・ディストン」の記事における「宣伝と政治」の解説
フロリダ州では土地をあまりに安く売ってしまうことを認めない者もいたが、肯定的な効果もあった。ディストンが土地を購入してから4年間で、過去20年間の4倍の鉄道が敷かれた。土地の販売量は6倍となり、州の課税資産は価値が2倍になった。1884年の冬だけで、15万人の観光客がフロリダ州を訪れた。 ディストンは人々をフロリダに惹きつけるために、アメリカはもちろん、イングランド、スコットランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、デンマークにも不動産事務所を開いた。州全体の3分の2を所有する人物として自分を宣伝した。これらの動きによって、人々をオーランド地域に引き寄せた。ディストンが販売した土地の中からサラソータやネイプルズといったフロリダ州の主要都市が成長した。フォートマイヤーズはカルーサハッチー川浚渫工事の基地となり、その人口が急増した。ディストンの本社はトホペカリガ湖の岸にあり、キシミー市となった。 ディストンは1876年から既に地方の問題について政治の世界に入っていた。ディストンの他に、ジェイムズ・マクメインズ、ウィリアム・リーズ、デイビッド・レインというフィラデルフィアの3人の実業家を含めて「ビッグ・フォー」と呼ばれ、政治マシーンの仕組みの中で共和党の市役人に対する候補指名や指名そのものを支配していたが、1890年に新しい政治ボスが現れて彼らに代わった。ディストンはその富があるので、かれら大物や政治的著名人と付き合いができ、政治家に忠告を求められることが多かったが、自分で出馬することは辞退していた。公に後に大統領となるベンジャミン・ハリソン、アメリカ合衆国下院議員のウィリアム・D・"ピッグアイアン"・ケリー、政治ボスのマシュー・クエイを支持していた。 1883年、仲間の共和党員であるチェスター・A・アーサー大統領を、キシミー市の大々的宣伝活動の一部として釣り旅行に誘った。ディストンは広さ2万エーカー (81 km²) のサトウキビ・プランテーションを設立し、そこからセントクラウド市が出現していた。キシミー市のオキーチョビー湖近くにそのプランテーションのための精製所が作られた。 ディストンのフロリダ開発計画でキーとなったのは、オキーチョビー湖に流れ入るキシミー川の氾濫原から排水するための大量の浚渫工事であり、それで季節に関わらずエバーグレーズとその周辺の地表水を排除することだった。その運河はオキーチョビー湖の溢流をセントルーシー川に導き、東の大西洋に逃がすように計画された。カルーサハッチー川の溢流は西のメキシコ湾に向けられ、最後は運河が南のエバーグレーズを通って掘られた。ディストンはオキーチョビー湖のとセントルーシー川を繋ぐ大型運河を建設開始するよう忠告されたが、法外な費用が見込まれたので、キシミー川を直線にする小さな浚渫作業から始め、オキーチョビー湖とカルーサハッチー川を繋ぐことになった。1881年から1882年の冬にオキーチョビー湖周辺で浚渫が始まった。1883年6月、ディストンが計画したようにキシミー・バレーが排水された報告があり、その1年後には300万エーカー (12,000 km²) 近い干拓地の浚渫がディストンによると報告された。
※この「宣伝と政治」の解説は、「ハミルトン・ディストン」の解説の一部です。
「宣伝と政治」を含む「ハミルトン・ディストン」の記事については、「ハミルトン・ディストン」の概要を参照ください。
- 宣伝と政治のページへのリンク