准大臣の定着と変質とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 准大臣の定着と変質の意味・解説 

准大臣の定着と変質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 17:23 UTC 版)

准大臣」の記事における「准大臣の定着と変質」の解説

南北朝時代になると、准大臣宣下目的大きく変化する。本来なら大臣になる資格のない名家出身者特別に優遇するために用いられることになったのである。 その初例は後醍醐天皇時に股肱老臣吉田定房行われたのである。定房は元亨3年1323年)に権大納言辞していたが、元徳2年1330年1月13日になって名家出身者初め従一位叙せられた。その後元弘の乱に伴う後醍醐天皇廃位と復位経て建武元年1334年6月26日従一位権大納言吉田定房准大臣宣下があった。さらに後醍醐同年9月9日には定房を内大臣昇進させている。この人事は当時強い批判を受け、その後定房とともに南朝仕えた北畠親房の『職原鈔』のなかでも批判的に記されている。 准大臣宣下の対象その後同列羽林家出身者にも広げられるが、やはり名家出身者大多数占めるようになり、逆に摂関家清華家から准大臣が出る例は跡を絶った。おそらく唯一の例外として、大臣家家格である中院通淳当時正二位権大納言)が危篤陥ったため、宝徳3年1454年11月19日従一位昇進したうえで准大臣宣下受けた例がある。通淳は9日後の28日死去したその後名家羽林家出身の中で大臣に進む者もいたが、極めて稀な例であり、従一位叙され准大臣宣下を受けることが、名家羽林家にとっても現実的な極官してみなされるようになるこのため死去出家直前これまでの功労報いる意味で准大臣宣下が行われる例も増加していった。また、名家羽林家ひとくくりにされてはいるが、現実には家ごとに到達できる官職・位階昇進コーススピード細分化されてそれぞれ定められており、家によっては中納言参議までしか到達できない家もあった。このような家には当然准大臣となる道は閉ざされている。幕末五摂家のひとつ一条家に侍として仕えた下橋敬長は、准大臣になれる家は、中山家松木家園家広橋家くらいのものだった大正時代になってから回顧している。もちろん、実際には、准大臣出した家はさらに多いが、名家羽林家であれば誰でも准大臣になれたわけではなかったことにかわりはない。 なお、准大臣官職はないため「公卿補任」などの史料にも必ずしも網羅されておらず、宣下受けた者の全容容易に知りがたい。 武家官位枠内での准大臣は、江戸幕府11代将徳川家斉実父治済が唯一の例である。

※この「准大臣の定着と変質」の解説は、「准大臣」の解説の一部です。
「准大臣の定着と変質」を含む「准大臣」の記事については、「准大臣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「准大臣の定着と変質」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「准大臣の定着と変質」の関連用語

1
6% |||||

准大臣の定着と変質のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



准大臣の定着と変質のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの准大臣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS