中院通淳とは? わかりやすく解説

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中院通淳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/23 02:02 UTC 版)

 
中院 通淳
時代 室町時代中期
生誕 康応元年/元中6年(1389年
死没 宝徳3年11月28日1451年12月21日
改名 通淳→妙通(法名)
別名 号:延命院
官位 従一位准大臣
主君 後小松天皇称光天皇後花園天皇
氏族 村上源氏中院家
父母 父:中院通守
兄弟 通淳、守鑁
中院通敏の娘
通秀肖柏
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中院 通淳(なかのいん みちあつ)は、室町時代中期の公卿権大納言中院通守の子。官位従一位准大臣延命院と号す。

経歴

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

准大臣の宣下について

中原康富が『康富記』で中院通成から中院通淳に至る中院家歴代当主について回想し、「彼中院之一流元祖通成内大臣給、其次通頼為准大臣、其次通重任内大臣、其次通顕任内大臣、其次通冬一位大納言其次通氏正二位權大納言、通守卿、中納言通淳卿大納言、去月一日一品、今日為准大臣」と記し、通冬-通氏-通守の三代が納言クラスの官位に留まったのに対し、通淳が准大臣になったことを「被興三代中絶、可謂規模乎」と感慨を述べ、つまり中院家の大臣家としての家格を再興したことを評価している。

中院家復権のきっかけを得る

通淳の曾祖父中院通冬が一時的に南朝に仕えたことがきっかけとなり、持明院統北朝政権下で中院家は沈淪を余儀なくされた。通淳も辞任還任を繰り返す状態であったが、「嘉吉の乱」があり室町幕府6代将軍・足利義教赤松満祐に暗殺されたことを境に淳和院別当に補され、従一位准大臣に至ったのである。息男の中院通秀肖柏が共に歌人として名を成したこともあり、和歌を足がかりとして中院家は徐々に復権してゆくことになった。

系譜

脚注

  1. ^ 同年6月に「嘉吉の乱」があり室町幕府6代将軍足利義教赤松満祐に暗殺されたあとを受けての補任となる。
  2. ^ 同日、息男通秀が参議に任ぜられる。

参考文献




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