客載車両渡船(デッキハウス船)化
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「第五青函丸」の記事における「客載車両渡船(デッキハウス船)化」の解説
ここで迅速に行える旅客輸送力増強策として、上記沈座事故から修復工事中の第八青函丸に、1946年(昭和21年)4月、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に定員535名の木造板張り平屋の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、同時期「続行船」として建造中の第十二青函丸では、船橋楼甲板の前後に鋼製平屋の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設し、同じく「続行船」で建造中の石狩丸にも同様の鋼製デッキハウスが造設された。また、この時期就航中であった第十一青函丸では、1946年(昭和21年)7月の機関故障の工事中の同年9月に同様の鋼製デッキハウス造設工事が行われ、戦災修復工事中の第六青函丸でも、1947年(昭和22年)1月、ボイラー増設工事と同時に同様の鋼製デッキハウスが造設され、就航中の第七青函丸でも、1947年(昭和22年)9月のボイラー増設工事と同時に同様の鋼製デッキハウスも造設され、これら6隻の客載車両渡船は「デッキハウス船」と呼ばれた。しかし1946年(昭和21年)6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が進駐軍専用船に指定され、一般旅客の輸送力増強の目論見は頓挫した。 翌1947年(昭和22年)7月21日、第十一青函丸、第十二青函丸と石狩丸の3隻以外は指定解除されたが、これより前の同年4月、進駐軍の命令で、これら3隻の前部デッキハウス客室内前側の右舷側半分を木製壁で区切り将官用の特別室とした。さらに、その後ろに続く前部デッキハウス客室右舷側半分も長椅子ソファーと長テーブルを設置した食堂とし、その後ろの配膳室を拡張して厨房とする工事が行われ、これら3隻の乗客である進駐軍関係者への供食設備の充実が図られた。結局この3隻はサンフランシスコ講和条約発効に先立つ進駐軍専用列車廃止の1952年(昭和27年)4月1日まで、その指定は継続された。 デッキハウス造設による乗船者数増加のため、これら各船では救命艇が増備された。第六青函丸と第七青函丸では、前部デッキハウス両側面の船橋楼甲板に各舷2隻ずつ新設、後部デッキハウス両側面船橋楼甲板には既存の各舷1隻ずつ、中央部の甲板室の右側面の煙突前方部分に遊歩甲板を舷側まで拡張し、この遊歩甲板上に救命艇1隻新設して計7隻を装備した 第八青函丸については、ボイラー増設前の救命艇増備の詳細は不明であるが、ボイラー増設後は前部デッキハウス両側面の船橋楼甲板に1隻ずつ、後部デッキハウス両側面船橋楼甲板には2隻ずつ、中央部の甲板室では同じく右側面の煙突前方部分に遊歩甲板を舷側まで拡張し、この遊歩甲板上に救命艇1隻新設して計7隻を装備した 第十一青函丸と第十二青函丸では、遊歩甲板相当の前部デッキハウスの屋根を舷側まで拡張し、その上に各舷2隻ずつ装備し、後部デッキハウス両側面では船橋楼甲板に各舷1隻ずつ、中央部の甲板室では煙突が1本の左側面の煙突前方部分に遊歩甲板を舷側まで拡張し、この遊歩甲板上に救命艇1隻新設して計7隻を装備した。
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