客車列車化
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「パルジファル (列車)」の記事における「客車列車化」の解説
1968年9月29日から、パルジファルは西ドイツ国鉄のTEE用UIC-X客車を用いた客車列車となった。この時点ではベルギー領内のナミュール - リエージュ間が非電化であったため、同区間はディーゼル機関車牽引であった。1970年9月27日からは全区間が電気機関車牽引となり、所要時間はハンブルク行が8時間46分、パリ行が8時間55分にまで短縮された。 1971年5月23日のダイヤ改正から、パリ行のパルジファル(TEE 44)はミュンスター - エッセン間の経路を変更し、ドルトムントを経由するようになった。ハンブルク行は従来のゲルゼンキルヒェン経由の経路のままである。 1971年9月26日のダイヤ改正で、西ドイツ国鉄は4系統のインターシティ網を構築し、パルジファルを含むTEEも西ドイツ国内においてはその一部に位置づけられるようになった。パリ行パルジファル(TEE 32)は時刻を1時間あまり繰り上げられ、他のTEEやインターシティと主要駅で接続するダイヤが組まれた。これと引き替えにリエージュでのディアマントとの接続は打ち切られた。またミュンスター - エッセン間の経路は双方向ともドルトムント経由となった。これはインターシティ1号線(ハンブルク - ドルトムント - ケルン - ミュンヘン)の一部である。
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客車列車化
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「パリ・ブリュッセル・アムステルダム間の列車」の記事における「客車列車化」の解説
1960年代初め、パリ - ブリュッセル・アムステルダム間のTEEの輸送力は飽和状態にあった。気動車では需要に応じた増結が難しいことから、1963年5月に予定されていた同区間の全線電化に合わせ、各国鉄はこの区間のTEEを電気機関車牽引の客車列車とし、さらにパリ - ブリュッセル間で一往復増発することを決めた。またフランス国鉄とベルギー国鉄はTEE専用の新型客車(TEE PBA型)を共同で開発した。 ところが1962年冬の寒波の影響でベルギーでの電化工事が遅れ、1963年5月26日のダイヤ改正に間に合わなかった。このため同日運行開始したTEE「ブラバント」はフランス国鉄の気動車を用いた。また運転されたのはブリュッセル発パリ行の片道のみで、逆方向はイル・ド・フランスの増結車または第二エトワール・デュ・ノールとして運転された。 1963年9月1日からブラバントはTEEとして初の電気機関車牽引の客車列車となり、往復とも運転されるようになった。ただしこの時点ではTEE専用の客車は完成しておらず、フランス国鉄の従来の幹線用一等客車が用いられ た。 1964年5月31日からブラバントの客車はTEE PBA型となり、イル・ド・フランスもTEE PBA客車による客車列車となった。同時にオワゾ・ブルーはフランス国鉄の従来型客車による客車列車となった。エトワール・デュ・ノールはこの時点では気動車列車のままだった。 1964年8月2日にエトワール・デュ・ノールとオワゾ・ブルーもTEE PBA客車による客車列車となった。増発と客車化によりこの区間のTEEの輸送力は大幅に強化された。また最高速度が150km/h(フランス国内)とされたことにより、所要時間もパリ - ブリュッセル間で最短2時間30分、パリ - アムステルダム間で5時間20分に短縮された。 1968年にはフランス国内の最高速度が160km/hに引き上げられ、パリ - ブリュッセル間は最短2時間20分となった。また1969年にはエトワール・デュ・ノールがパリ - アムステルダム間を5時間ちょうどで結んだ。
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