客車・ガソリンカー
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開業当初はボギー式客車7両が存在した。以後は営業規模の拡大と共に両数が増え続け、1928年には23両まで増加している。 その後、1933年7月1日になって、客車8両を単端式ガソリンカーに改造する申請がなされた。日本において、私鉄が客車を気動車に改造した例は同時期(1930年代前半)の神中鉄道や頸城鉄道などでも見られたが、それらは前後進容易な両運転台構造を導入していた。従って一方向進行が基本の単端式気動車を新規導入することは既に時代錯誤であったが、敢えての導入は改造の簡易さが理由と考えられる。 ここで提出された仕様書によれば、ガソリンカーはフォードA型エンジンを使用し、定員は40人、寸法は長さ8,540mm×幅1,680mm×高さ2,090mmというスペックであったが、残されている車両写真には設計図と同型のものはなく、図面通りの車両が本当に作られていたのかすら、不明である。 しかも、この申請は当局に認可されなかった。規定の様式で書かれていない、設計書と図面が食い違っている、設計そのものに問題点がある(ブレーキが手ブレーキの一軸制動という、ブレーキ力が著しく弱いものであるなど)など、朝倉軌道の書類に問題点が多かったためであるが、中でも最大の問題であったのは、認可されている車両最大幅が1,676mmであったにもかかわらず、設計図の車両幅は1,830mmであったことである。 軌道の車両最大幅は、元々、敷設する道路(朝倉軌道の場合は県道)の幅を基にして設定されていた。都道府県道を管理するのは都道府県当局であり、そして、朝倉軌道が当局へ認可申請を行なうにあたっては、県(福岡県庁)を経由していた。県がここで車両最大幅の問題に目をつぶったとすれば、道が拡幅されていない(=認められる車両幅が大きくなっているはずがない)ということを分かっていながらこれを通したということになり、県当局自身の責任問題になってしまう。これでは認可される筈はない。 そもそも、新造ではなく既存客車の改造であるということは、最大幅が1,830mmとなる客車が以前から存在していたということになる。この理由については、認可最大幅が朝倉軌道本線より大きかった中央軌道や両筑軌道で使われていた(そして、それら路線で使うことはできても本線で使うことは許されていなかった)車両が、本線で使用される車両に混ざったのではないかと推測されている。 なお、このような車両を朝倉軌道が申請した理由について湯口徹は、仕様書に「建具材ハ総て欅材ヲ用ヒ」(建築材はすべてケヤキ材を用い、)「優美ニ仕上ヲナス」(優美に仕上げること)など「設計の審査に関係のないことばかりを延々と列挙」してあることや、実態がどうであれ書類上は「1,676mm」と書いておけば認可を通ったはずなのにそれをしていないことから、「朝倉軌道車両担当者の話にならない頭の悪さと要領の悪さ、そのくせ無知、横着、強情」から、「当局が認可できない理由がまったく理解できなかったのではないか」と推測している。 しかし、認可が下りないことは朝倉軌道にとってさしたる問題ではなかった。そもそも、申請以前にガソリンカー2両が試作改造済みであったと推測されている会社であり、認可に関係なく客車のガソリンカーへの改造は次々と行なわれていった。 申請では8両すべてが同形ということになっているが、残っている写真では1両ごとに形態・車幅・窓の数などが異なっており、実際はあり合わせの雑多な客車を元に、手当たり次第に改造が行なわれたものと考えられている。これらの車両については、正式な設計図などが存在していないが故に、詳細については判明していない部分も多いが、残された写真などから、片ボギーの単端式で、駆動部分はこれ以上ないほど簡易なものであったとみられている。後輪ボギーの単端式という形態は、日本はおろか世界的にも珍しい(アメリカの零細メーカーであるワトソン・モーター社が製造した例がある程度)ものであった。 このように法定の許認可制度を全く気にしない朝倉軌道に対し、当局は度々書類の督促を行なったが、返信がなかなか来なかったり、来たはいいが文面に必要事項が全く抜けていたりで、状況はほとんど進展しなかった。一方で朝倉軌道の現場では、一旦ガソリンカーに改造したものの再び客車に戻された(初期試作の2両など)ものや、代用燃料である木炭ガス発生炉を無認可で取り付けたものなども登場し、公文書上の記録と実態は乖離してゆくばかりであった。当局を相手に、ここまで杜撰さを貫き通した鉄軌道会社は、日本でも希な存在であろう。 結局当局は、1923年以前からの車両については「調査資料不詳ニツキ会社届出ヲ正ト認メテ処理セリ」(調査資料不詳のため会社の届け出を正しいことと認めて処理する)とし、詳細な調査を諦め、1938年1月11日にガソリンカーを認可した。申請から経過した時間は4年半であり、これは日本の鉄道における最長記録である。しかも、認可こそされたが車両幅が1,830mmである問題は未だに解決しておらず、「頼むから1,680mmの図を提出して一件落着にしてくれ、の悲鳴が行間からにじみでているようだ。こんな会社との交渉はもうこりごりが本音であろう」と湯口徹が評する照会文書が送られている。この問題は、同年9月3日に「1,830mm」が誤記であったと朝倉軌道が返答したことによってようやく決着した。 このような経緯を経て、1938年6月28日になって当局はようやく朝倉軌道の車両を把握する。ただし、これも完全に正確なものではなく、特に車両番号に関しては、存在しないはずの番号が記されたガソリンカーの写真が残っており、書類には記すのが楽な番号を書いていただけではないのかとも推測されている。 なお、ガソリンカー導入にあたっては、二日市駅など3駅に転車台敷設の認可申請(1933年7月13日)が行なわれたが、この際、申請書に記されていた構内配線図が問題となっている。実は二日市・杷木において構内配線が当局に無許可で変更されていた(時期不明)のだが、現実の構内配線図を申請書に記してしまっていたために、これが当局に露見したのである。当局に「二日市及杷木駅構内平面図ハ既提出図面ト相違ス配線及構造物ヲ変更セルモノナラバ相当変更ノ手続ヲナスコト」(二日市及び杷木駅構内の平面図は既に提出された図面と異なる配線また構造へ変更するなら、変更の手続きをすること)と照会された朝倉軌道は、これを21か月にわたって無視したあげく、最終的には転車台の認可申請を取り下げることで追及をかわした。 ただし、転車台は実際には敷設されており(無許可改造車両を載せて使用している様子を写した写真も残っている)、つまり無許可で設置・使用していたことになる。ここでも朝倉軌道の杜撰さは遺憾なく発揮されていた。
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