両筑軌道とは? わかりやすく解説

両筑軌道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/05 00:00 UTC 版)

両筑軌道(りょうちくきどう)は、かつて福岡県浮羽郡田主丸町(現・久留米市)と朝倉郡甘木町秋月町(共に現・朝倉市)などで軽便鉄道乗合バスを運営していた日本の企業、および同社の運営していた鉄道路線である。


  1. ^ 麻生太吉伊藤伝右衛門などの筑豊の資産家も出資していた。「大正初期九州における私有鉄道」23頁
  2. ^ 『甘木市史』下巻 205頁
  3. ^ 『大刀洗町史』
  4. ^ 『甘木市史』下巻205-206頁
  5. ^ この「軌道敷設特許権」譲渡について小川の仮説によれば不良債権(両筑軌道)を抱えた地元金融機関が負債の償却を図るために新会社を設立したとしている。 それは新両筑軌道の役員は地元の浮羽銀行、田主丸銀行、田主丸実業銀行の関係者が大半をしめ、大株主も浮羽銀行(地元では森田銀行と称されていた)を支配する森田家の親族が名を連ねていた。さらに本社所在地は浮羽銀行頭取の森田富次郎の自宅とされており、それは「秘密保持」「両筑軌道から新両筑軌道への売買行為が浮羽銀行の信用に芳しくない背景を持つ」ためとしている 新両筑軌道への譲渡の直前の田主丸銀行、田主丸実業銀行は貸付先の回収が著しく滞り、とくに田主丸実業銀行は多額の固定貸しを抱え内情は困難な状況であり浮羽銀行を含めた三行合併を計画しており生き残りをかけていた時期であった。 一方両筑軌道では借入金が開業間もない大正3年現在で6.8万円であったのが6年3月現在で11.8万円に膨らんでいた。そのため「不良債権を新会社の株式と交換」する手法により新両筑軌道では借入金をわずか600円にした。目的のおわった新両筑軌道株は昭和9年には弥寿銀行頭取で朝倉軌道社長の多田勇雄ら朝倉軌道関係者に譲られた。 ただ両筑軌道の借入先と各行の貸付先が不詳のため憶測にとどまるとしている。
  6. ^ 1934年時点で9路線車両6台『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  7. ^ 「軌道敷設特許権譲渡」『官報』1924年12月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「軌道特許失効」『官報』1927年9月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「軌道営業廃止」『官報』1930年9月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 『九州沖縄』〈日本鉄道旅行地図帳〉42頁


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