客車の鋼体化と軽量客車
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「日本の鉄道史」の記事における「客車の鋼体化と軽量客車」の解説
明治大正期の客車は、鋼製の台枠の上に木造の車体を載せた構造であった。即ち車両として必要な強度は車両の床に相当する台枠が受け持っており、壁や屋根は木造家屋並みのもの。この構造は安全上から見ると脱線転覆した場合に木造車体がバラバラに壊れるため、乗客の被害が大きくなる問題があった。 壁や屋根まで鋼製にした客車は1927年頃から少しずつ生産されたが、古い木造客車は戦後も大量に残存していた。1947年2月25日に起こった八高線列車脱線転覆事故はブレーキ故障が原因といわれている事故だが、土手から転落した木造客車がバラバラに壊れた結果、死者184名という大事故になった。 事態を重視したGHQの指示により、木造客車の鋼体化が進められ、1957年までに完了した。台枠のみに強度を持たせたままでの鋼体化は重量が嵩むのが問題となる。そこで重量対策として1953年頃から電車やディーゼルカーを含むすべての旅客車について、壁や屋根の外板にも強度を受け持たせその分台枠を軽量化する「セミモノコック」構造が取り入れられ、軽い車体が製造できるようになった。1955年に製造された10系座席車は台車の軽量化も行われ、軽量客車と呼ばれた。1958年に登場した20系客車は東京と九州を結ぶ寝台特急「あさかぜ」用として作られた車両で、乗り心地改良のため台車に空気ばねを採用し、冷暖房を完備して快適性を向上させると同時に騒音の入り口となる窓を固定化して静粛性も改善した。20系は運行中に編成の分割・併合を考慮しない固定編成であり、空調や食堂車で使う電気量が増大した対策としてディーゼル発電機を装備した電源車を連結した。この車両は当時の寝台車の水準を超えた装備から「走るホテル」と呼ばれたり、車体側面を青色に塗られたことからブルートレインと呼ばれて人気を博した。 それまでの客車の乗降扉は走行中も手動で開閉できたが、20系には走行中に乗降扉をロックする機構が装備された。これは、1956年に盲目の音楽家宮城道雄が刈谷駅付近を走行中の客車から転落死した事件に鑑み、客車の安全性向上を図ったものといわれている。また20系より後に生産された客車の乗降扉は、電車同様に自動化された(電車は戦前から自動扉を備えていた)。
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