分割・併合
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「ラインゴルト (列車)」の記事における「分割・併合」の解説
TEE昇格当時、ラインゴルトは途中のユトレヒト、デュースブルク、バーゼルの3個所で客車の分割・併合を行なう多層建て列車であった。 1965年の夏ダイヤにおけるジュネーヴ行ラインゴルト (TEE 10) では、分割・併合は次のように行なわれた(#編成図も参照)。まずラインゴルトはアムステルダムとフーク・ファン・ホラントを各々客車3両で発車する。ユトレヒトでこれらを連結して6両編成となる。デュースブルクでこのうち前2両、後ろ1両を切り放しミュンヘン行きラインプファイル (TEE 22) に連結、同時にラインプファイルでドルトムントから到着した客車のうち4両をラインゴルトに連結(前部に1両、後部に3両)する。バーゼルSBB駅では編成は3分割され、ラインゴルトは4両編成となってジュネーヴへ、またミラノ行き客車2両はスイス国鉄、イタリア国鉄の458-313列車に、クール行きの1両はスイス国鉄の203列車に連結されてそれぞれの目的地へ向かう。アムステルダム - ジュネーヴ間の全行程を走破する客車は1両のみであり、フーク・ファン・ホラント - ジュネーヴ間を直通する客車は存在しなかった。また展望車はドルトムント発着の編成にのみ含まれており、オランダには乗り入れていなかった。 オランダ方面行き (TEE 9) はほぼこれの逆の手順で分割・併合を行なうが、客車の連結順が異なり、またデュースブルクからドルトムントへの車両はラインプファイルではなく、その数分後を続行する別の列車 (F 321) として運行された。このような複雑な手順のため、ラインゴルトの途中駅での停車時間の合計は双方向とも60分を越えており、運行時間の約1割を停車時間が占めていた。 1969年にTEEローラント(ブレーメン - バーゼル - ミラノ)が創設されると、ミラノ発着の客車はバーゼル - ミラノ間でローラントに連結されるようになった。 1970年夏のダイヤ改正ではドルトムント - クール間の直通客車が新設された代わりに、アムステルダム - クール間の直通客車はなくなった。これは西ドイツ国鉄がルール地方とスイスの間の需要を重視したためであり、アムステルダムとドルトムントの双方からの客車をクールへ直通させようとすると、デュースブルクもしくはバーゼルでの客車の入れ替えが複雑になり過ぎるためでもある。この結果デュースブルクでは、ラインゴルトとしてオランダとスイス方面を直通する客車よりもラインプファイルと入れ替えられる客車の方が多くなった。 1971年9月26日からラインプファイルはハノーファー - ミュンヘン間のインターシティとなったが、デュースブルクでの客車の入れ替えは以前と同様に行なわれていた。
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分割・併合
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京急の羽田空港ターミナル乗り入れ以前は都営浅草線直通急行の終着駅だったほか日中の新逗子方面行き急行(現在のエアポート急行とは異なる)の一部が折り返していた。2010年5月15日までのダイヤでは羽田空港発着の快特と品川・泉岳寺発着および都営浅草線直通快特の分割併合駅だった。 品川方の上下線の間に1本引き上げ線があり、当駅始発の普通や、羽田空港発の浦賀行と新逗子行4両編成増結時の待避に使用された。羽田空港を発着する4両編成の特急の列車番号末尾はすべて「D」だった。なお、この引き上げ線は、かつて都営線からの直通急行の折り返し線として使用していた。現在は品川 - 京急蒲田駅間の区間運転列車がこの引き上げ線を使用して折り返している。これは京急蒲田駅の構造上、京急蒲田で品川方面に折り返すことができないためである。また、同じく品川方の多摩川鉄橋上に折り返し用の渡り線が設置されており、新逗子方面行き急行はこちらを使って本線上で折り返していた。 下り線の増結時は京急蒲田を羽田空港始発4両編成が先に発車し、当駅手前で上下線の間にある引き上げ線に入線後一旦停車し、後続の快特(8両編成)を先に通してから、後ろ4両の増結を行なっていた。増結後は当駅 - 金沢文庫間を12両編成で運転し、羽田空港 - 当駅間で特急だった種別が快特となっていた。 逆に上り線では、金沢文庫から増結された12両の快特の後ろ4両を当駅で分割し、8両編成の快特発車直後、4両編成の特急羽田空港行に種別変更し発車していた。発車前に停止位置を少し移動していた。また、増結待ちのD特急が引き上げ線に停車中は横浜方からの当駅止まりの電車が引き上げ線を使用できないため、品川方の上り線本線の多摩川鉄橋上で一旦停車し、渡り線を経由し折り返していた。引き上げ線使用時は5番線に入線するが、上り本線で折り返す場合は4番線に入線する。5番線の普通と緩急接続する快特と特急は4番線を使用する。 なお朝方に運行される12両編成の下り特急列車は神奈川新町駅のホーム有効長が8両編成のため後4両が当駅止まりとして運行されるが、当駅では分割せずに後4両を回送扱いにした状態で12両編成のまま次の神奈川新町駅まで運行され同駅にて分割作業を行なう。
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分割併合
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「小田急電鉄の鉄道車両」の記事における「分割併合」の解説
箱根湯本行き・片瀬江ノ島行きを併結した急行(1993年) 相模大野駅では連結作業が頻繁に行われていた(9000形と4000形) 大型車と中型車も相互に連結(2600形と2400形) 小田急が分割併合を相模大野で開始したのは1953年で、新宿寄りの区間と小田原・江ノ島寄りの区間で輸送量に大きな差があったことから、車両の効率的な運用を行うために開始された。1964年に急行の8両編成での運行が開始されると、ほとんどの急行は相模大野で分割併合を行うようになった。1973年には相模大野での分割併合の回数は平日で1日154回に達していた。また、1991年3月18日のダイヤ改正では、平日に新宿を発車する急行列車115本のうち、分割がない列車は26本だけであった。小田急電鉄OBの生方良雄は、1988年の自著の中で分割併合について「全国でというより世界でもこれだけ頻繁に行っている所は無い」と述べている。 このように多くの分割併合が行われていたため、車両側でもその対応が行われた。1974年3月、前面がフラットで解結作業がやりにくかった1800形に対して自動解結装置を設置したのを始めとして、1975年までに全編成に自動解結装置の設置が行われた。これにより、分割併合の作業は運転士だけで行うことが可能になった。また、途中で分割する列車において、誤乗防止のために前編成と後編成に対して別々の放送を行うことができるように、分割放送装置も全編成に設置された。また、1995年に登場した30000形EXE車では、幌まで含めて自動的に解結動作を行う装置が採用された。 しかし、1991年度以降に登場した10両固定編成、1992年度以降に登場した8両固定編成では、これらの装置は設置されていない。また、2001年に登場した3000形では当初より小田原方先頭車の電気連結器は設置されておらず、2005年以降は他形式においても6両固定編成の小田原方先頭車の電気連結器の撤去が行われている。 なお、その後1990年代後半には全線を通して10両編成で運行する急行も登場したほか、2008年3月15日には、それまで平日で145回あった分割併合はわずか6回、土休日に141回あった分割併合も5回と、分割併合の回数は大幅に減少し、2012年のダイヤ改正で、特急以外の分割併合は全廃された。
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