サンフランシスコ‐こうわじょうやく〔‐カウワデウヤク〕【サンフランシスコ講和条約】
日本国との平和条約
(サンフランシスコ講和条約 から転送)
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日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。
注釈
- ^ 写真上から順に一万田尚登(日本銀行総裁)、徳川宗敬(参議院緑風会)、星島二郎(自由党)、苫米地義三(国民民主党)、池田勇人(蔵相)。一番手前側にいる背広の人物は不明(全権委員ではない)。
- ^ 第1条(b)
- ^ 日本語では「及び」と「並びに」の違いがわかりにくいが、英文では明解で“DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後に来ることになる。
- ^ アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。
- ^ 中国を代表する政府として中華人民共和国と中華民国のいずれを招へいするか連合国内で意見が一致しなかったため、いずれも招へいされなかった。
- ^ これによればそれ以前に始まっていた日中戦争(支那事変)は含まれない
- ^ アメリカはこれにより日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(現行)を締結して在日米軍を駐留させ現在に至る。「吉田・アチソン交換公文」で朝鮮国連軍も対象。
- ^ 独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("tried all resources in Washington")にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)ダレス米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。
- ^ 訓読文では「学を曲げ世に阿る」、つまり「世間に迎合するため、学問的真理を曲げる」という意味
- ^ この時の池田訪米に秘書官として同行した宮澤喜一の述懐による。
- ^ なお「War Memorial」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「第一次世界大戦従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」。
- ^ オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国。
- ^ セイロンが批准書を寄託した旨の1952年5月10日付け外務省告示第14号は、セイロンが1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した旨を告示するのみで発効日については言及していない。
- ^ 1989年に廃止・閉鎖。跡地はゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部になっている
- ^ この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
- ^ サンフランシスコ講和条約ではマッカーサー・ラインも廃止される予定であった。
出典
- ^ 正文の項参照
- ^ 日本国との平和条約及び関係文書 (日本法令索引)
- ^ ブラウンリー 1992, p. 121
- ^ ブラウンリー 1992, p. 100
- ^ Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)参照。
- ^ United States Department of State (1976) (英語). Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts). Volume VII, Part 2. pp. pp. 898-900(アメリカ合衆国国務省『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)
- ^ 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁
- ^ 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年
- ^ a b c d e 伊藤祐子「日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容」亜細亜大学国際関係紀要第11巻第1号,2001年
- ^ a b c d 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p64-68
- ^ 1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印(法学館憲法研究所)
- ^ a b 都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号
- ^ KOTOBANK全面講和愛国運動協議会(世界大百科事典)、日立ソリューションズ。
- ^ 『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.
- ^ a b c d クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」 2013年1月27日閲覧。信夫清三郎『戦後日本政治史Ⅳ』勁草書房,p.1112
- ^ 『文藝春秋』1952年1月号
- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。p86
- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000。p100
- ^ 「講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録」東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、外交史料館所蔵。
- ^ 朝日新聞1951年8月17日
- ^ a b 中村麗衣「日印平和条約とインド外交」(PDF)『史論』第56号、東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室、2003年、pp.56-73、NAID 110007411152。
- ^ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.
- ^ s:韓国政府の要求に対する1951年5月9日付米国側検討意見書, 4. 在日韓国人は連合国国民の地位を与えられるべき.
- ^ エモンズによる会談覚書、および竹島問題参照。
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296
- ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。
- ^ アメリカ占領下の日本 第4巻 アメリカン・デモクラシー企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
- ^ 吉田茂参照
- ^ (外務省 外交史料 Q&A 昭和戦後期)。原稿は、外務省(1970年118~122ページ)、田中(刊日不明)で閲覧可。
- ^ 昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号
- ^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について - 外務省
- ^ 1952年(昭和27年)8月5日発効。
- ^ 日本国とビルマ連邦との間の平和条約 - 外務省
- ^ a b Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister Archived 2005年12月12日, at the Wayback Machine. National Informatics Centre Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005
- ^ a b 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
- ^ 日本国とインドネシア共和国との間の平和条約 - 外務省
- ^ 日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書 - 外務省
- ^ 日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定 - 外務省
- ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版
- ^ 1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版
- ^ 1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版
- ^ a b 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」 大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002
- ^ “対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留”. 琉球新報. (2012年4月28日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ “沖縄の40年<屈辱の日>”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2012年5月1日) 2012年11月25日閲覧。
- ^ 「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日
- ^ “戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手”. 日本郵趣協会. 2012年6月5日閲覧。
- ^ サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手
- ^ “自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2011年2月25日) 2011年3月6日閲覧。
- ^ a b イリナ・イワノワ (2012年11月15日). “反日統一共同戦線を呼びかける中国” (日本語). ロシアの声 2012年11月25日閲覧。[1][リンク切れ]
サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
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「北方領土問題」の記事における「サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)」の解説
「日本国との平和条約」も参照 第二章 領域 第二条(c) (和訳原文) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、アメリカ全権のダレスは歯舞群島は千島に含まないとするのが合衆国の見解とし、連合国内で合意をみない旧日本領土の最終処分については22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができるとした。日本全権の吉田は、南樺太および千島列島は日本が侵略によって奪取したとのソ連全権の主張は承諾できない、としたうえでソ連による北方占領地の収容を非難する根拠として日露和親条約や千島樺太交換条約での平和的な国境の画定を指摘し、南樺太と千島列島のソビエトによる収容が一方的であると非難し、かつ歯舞・色丹については「日本の本土たる北海道の一部を構成する」と、国後・択捉については「日本領であることについて、帝政ロシアも何ら異議をはさまなかった」とそれぞれ説明している。 国内では、サンフランシスコ講和条約締結前の1950年3月8日の衆議院外務委員会にて島津久大政務局長が、同条約締結直後の1951年10月19日の衆院特別委員会にて西村熊雄条約局長が、同年11月6日の参院特別委員会に草葉隆圓外務政務次官が、それぞれ「南千島は千島に含まれている」と答弁している(但し、西村・草葉は歯舞・色丹に関しては千島列島ではないと答弁した)。この答弁がされていた当時は条約を成立させて主権を回復することが最優先課題であり、占領下にあって実際上政府に答弁の自由が制限されていた。この説明は国内的に1956年2月に森下國雄外務政務次官によって正式に取り消された。 その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としており、1956年頃から国後・択捉を指すものとして使われてきた「南千島」という用語が使われなくなり、その代わりに「北方領土」という用語が使われ始めた。日本政府は1964年に国後・択捉に対する「南千島」という旧来の呼称に代え、四島を返還要求地域として一括する「北方領土」という用語を使用することを決定した。 以上の経緯から、日本政府は一度は主権を放棄した国後・択捉について返還を求めることについては「復活折衝」と表現する者もいる。 この条約では日本が放棄した旧領土の帰属先については意図的に除外されており、ソビエト全権のグロムイコはこの英米案からなる講和条約案を非難している。これはすでに朝鮮半島で始まっていた東西陣営による角逐(朝鮮戦争、あるいは封じ込め政策)の緊張のなかで、北方占領地や台湾・沖縄・小笠原などが焦点となったためで、ソビエトは米国による西南諸島・台湾・小笠原諸島の国連信託統治の形での実効支配についても非難している。 また、第二条(c)のほかに、北方領土問題に関する条文として、第二十五条と第二十六条が存在する。 現在、サンフランシスコ講和条約においては以下の条文を適用することによりロシア(旧ソ連)による南樺太・千島列島・色丹島・歯舞群島の領有権は否定されているというのが、この条約を批准した日本など46カ国の立場である。 第七章 最終条項 第二十五条 (和訳原文) この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。 つまり、ロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印・批准していないのでこの条約上の連合国には該当せず、当該条約はそのような国に対していかなる権利、権原又は利益も与えられてはおらず、すなわち、日本が放棄した千島列島や南樺太をロシアが領有することは認めないということである。 さらに、日本がこの条約に違反した場合の罰則も規定されている。 第二十六条 (和訳原文) 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。 アメリカは、日本がソ連との間で色丹・歯舞の二島「譲渡」で妥協しようとした際、上記の条文を根拠として、沖縄の返還に難色を示した。
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