サンフランシスコ講和会議全権団顧問とは? わかりやすく解説

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サンフランシスコ講和会議全権団顧問

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 21:33 UTC 版)

白洲次郎」の記事における「サンフランシスコ講和会議全権団顧問」の解説

1950年昭和25年)、連合国との講和問題池田勇人蔵相宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレス会談平和条約締結準備開始した1951年昭和26年9月サンフランシスコ講和会議全権顧問として随行した外務省説明によると、首席全権であった吉田茂当初、英語で演説を行うつもりだったが、日本の「ディグニティ尊厳)」のために、当日になって急遽日本語演説することとしたという。白洲によれば、この時受諾演説原稿外務省役人GHQ了解得た上でGHQ対す美辞麗句並べかつ英語で書いたことに白洲激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等資格出席できるはず。その晴れの日原稿を、相手方相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝急遽日本語書き直した原稿随行員が手分けして和紙毛筆書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還盛り込まれた。しかし、サンフランシスコ条約会議に、事務元締めとして参加した西村熊雄条約局長は、受諾演説文は、日英両国語で作っていたこと、および、吉田は英語で演説するつもりだったが、シーボルド大使西村熊雄日本語演説することを勧めたため、同僚白州顧問等と相談したところ、皆、賛成であり、吉田その旨伝えた、としている。 1952年昭和27年11月19日から1954年昭和29年12月9日まで外務省顧問務めた吉田退陣後政界入り一部から望む声もあったが政治から縁を切り、実業界戻った

※この「サンフランシスコ講和会議全権団顧問」の解説は、「白洲次郎」の解説の一部です。
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