サンフランシスコ講和条約後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:00 UTC 版)
「特殊慰安施設協会」の記事における「サンフランシスコ講和条約後」の解説
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し、関係諸国との請求権問題を解決し、同時に在日米軍の駐留が容認された。 しかし、その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月に宇治市大久保小学校の四年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した。1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた。
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