サンフランスシスコへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 07:13 UTC 版)
「万延元年遣米使節」の記事における「サンフランスシスコへ」の解説
安政7年1月18日(1860年2月9日)、使節団一行は品川沖でポーハタン号に乗船、横浜に4日停泊した後、旧暦1月22日(2月13日)、サンフランシスコに向け出港した。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使いすぎたため、旧暦2月13日(1860年3月4日)補給のためにホノルルに寄港(ホノルル到着の2日前に日付変更線を通過しているが、一行の多くは日付の調整を行っていないため、日記の日付が実際の日付と一致しない。以降は調整を行った日付を記す)。ハワイ滞在中一行は、ハワイ王国国王・カメハメハ4世に拝謁している。旧暦2月26日(1860年3月17日)ホノルルを出港、旧暦3月8日(3月28日)にサンフランシスコに到着した。3月11日には市長主催の歓迎式が行われている。 一方、咸臨丸も嵐に遭遇し、木村の予想通り日本人乗員は使いものにならなかったが、ブルック以下米国人乗組員の働きにより、旧暦2月27日(3月18日)にサンフランシスコに到着した(ブルックは遺言で死後50年間は日記の公開を禁じていたため、この航海の実態が明らかになったのは1960年になってからのことである)。ポーハタン号の到着により咸臨丸の任務は完了したが、損傷が酷く修理の必要があった。この修理のためサンフランシスコに留まる間、咸臨丸の乗員らは現地の人々との交流も行っている。福沢諭吉は写真館に出掛け、アメリカ人の少女と一緒に写真に写っている。また、福沢と中浜はウェブスターの英中辞典を買い求めているが、これは英和辞典を作成するためのものであった。咸臨丸はワシントンへ向う正使一行と別れ、旧暦閏3月19日にサンフランシスコを出発、ホノルルを経て旧暦5月5日に浦賀へと帰還した。
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