使節団一行
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「パリ万国博覧会 (1867年)」の記事における「使節団一行」の解説
幕府はフランスへの親善使節として、徳川昭武(民部大輔)のほか、外国奉行、水戸藩土ら総勢25名に派遣を命じた。訪仏については、幕府内に親仏派を作りたいフランス公使レオン・ロッシュが熱心に幕府へ働きかけて決定され、ロッシュの部下の宣教師メルメ・カションが担当した。親善のほか、昭武や青年らの留学が目的であり、留学生は追加を含めて帰国時には32名を数えた。 幕府派遣の使節団一行は1867年2月15日フランス帝国郵船アルへー号で横浜を発ち、同年4月3日にマルセイユ到着。滞仏中は万博出席のほか、フランス皇帝ナポレオン3世謁見、観劇、競馬観戦、病院視察などし、昭武らは数名は同年9月4日より、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを訪問して国王らに謁見、昭武や幕府派遣留学生は数年の留学を予定していたが、大政奉還の報を翌1868年1月に接し、10月19日離仏、12月16日横浜に帰国した。
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