国旗としての汎用化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:00 UTC 版)
1858年(安政5年)、幕府目付岩瀬忠震と下田奉行井上清直は、日章旗を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印・署名した。 翌1859年(安政6年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。 1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由して首都ワシントンD.C.に到着し、当時のアメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准 書の交換 を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイをパレードする模様が伝えられている。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。 こうして、「日本国惣船印」は国旗とほぼ同様な使い方をされることになり、次第に「国印」(1863年(文久3年))と呼び方が変わっていった。
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