第八回使節とは? わかりやすく解説

第八回使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第八回使節」の解説

耶律希亮進言により、日本侵攻計画延期されてから3年経過した1279年弘安2年至元16年)、再びクビライ日本侵攻計画する南宋旧臣范文虎は、ひとまず日本へ再び使節派遣してもう一度日本が従うか否か見極めてから出兵することを提案したため、クビライはその提案受け入れた。こうして、杜世忠使節団斬首処されたことを知らないまま、周福、欒忠を元使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳陳光使節団再度日本派遣した今回使節団南宋旧臣という范文虎立場利用して日本友好関係にあった南宋旧臣から日本元へ服属勧めるという形をとった。 大宋國牒状として日本側に手渡され牒状内容は「宋朝南宋)はすでに蒙古討ち取られ、(次は)日本も危うい。よって宋朝南宋)自ら日本に(元に服属するよう)告知」する内容であった同年6月日本側は周福らが手渡した牒状前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において周福ら使節団一行斬首処した

※この「第八回使節」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「第八回使節」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第八回使節」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第八回使節」の関連用語


2
0% |||||

第八回使節のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第八回使節のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの元寇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS