高度経済成長と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:22 UTC 版)
全日空は1959年(昭和34年)4月1日に東京 - 大阪直行便(毎日2便 DC-3)の開設に続き、10月10日には東京 - 札幌(千歳)直行便を開設し、国内幹線への進出を果たす。また、1960年(昭和35年)12月、韓国学生文化使節団一行の帰国便をコンベア440によりソウル(金浦)へ運航し、国際チャーター便も開始した。1961年(昭和36年)9月23日には、当時まだ米軍施政下にあった沖縄への定期便、鹿児島 - 沖縄線の第一便がフォッカー F27により運航を開始した。この路線は1972年(昭和47年)の沖縄返還まで全日空で唯一の国際定期便であった。1962年(昭和37年)10月には戦後初の国産旅客機であるYS-11の20機の予備契約を行い、同社は初のローンチカスタマーとなった。正式契約は1964年(昭和39年)となり、同年9月9日に2号機をリースし、「オリンピア」の愛称で当時開催された東京オリンピックの聖火を日本全国に空輸した。 高度経済成長に伴う航空需要拡大を受けて、機材も大型化し、当時日本航空のダグラス DC-4より1 - 2割高速だったコンベア440や、フォッカー F27、YS-11、ヴィッカース・バイカウントシリーズ、ボーイング727型機などの当時の最新鋭機を精力的に導入していった。また、航空行政(運輸省)の方針に従い、中小航空会社の合併・事業継承も行った。1964年(昭和39年)11月1日、藤田航空を吸収合併し、1965年(昭和40年)2月1日、中日本航空の定期航空部門を吸収、さらには1967年(昭和42年)12月1日、長崎航空の定期航空部門を継承した。これらにより、1968年(昭和43年)には、世界民間航空旅客輸送実績ランキングで、日本航空を抜き第19位に浮上し、1979年(昭和54年)にはアメリカン航空 (AA)に次ぐ、世界第6位の航空会社となった。 1976年2月にはロッキード事件が明るみに出た。全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、ロッキード社が全日空にL-1011 トライスターを導入させるため田中角栄を始めとする閣僚らに多額の賄賂が支払われたという事件で、全日空においても澤雄次専務、藤原亨一取締役、若狭得治社長、渡辺尚次副社長などが外為法違反や偽証罪などで逮捕された。1976年3月22日、全日空は「トライスターはこうして選ばれた」とするテーマで社内報増刊号を発行、社員に向け潔白であることを訴えた。
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