高度経済成長と党安定期
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「自由民主党 (日本)」の記事における「高度経済成長と党安定期」の解説
1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って第2次岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与党への同情から安保闘争から間もない1960年の第29回総選挙では社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げ、政治運動は影を潜めるようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。 1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない」とオフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した。 1964年(昭和39年)、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継者に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出した為に自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが新左翼への反発から安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤」と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。 結党から1960年代の終わりまでの時期、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったものの全体として安定期だった。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、左派・革新系の社会党や日本共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は離党者による民社党の結成や公明党・日本共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。
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