高度経済成長と観光ブームの到来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 16:28 UTC 版)
「別府温泉」の記事における「高度経済成長と観光ブームの到来」の解説
太平洋戦争で戦災に遭うこと無く終戦を迎えた別府には戦後、進駐軍が駐留。占領終了後の高度経済成長期には新婚旅行や修学旅行などで最盛期を迎えた。1950年(昭和25年)には、国際観光文化都市の第1号として国際観光温泉文化都市に指定され、1957年(昭和32年)には別府温泉観光産業大博覧会が開催されると、別府競輪場や別府タワー、鶴見岳の別府ロープウェイ、九州横断道路(やまなみハイウェイ)が開業するなど観光施設の開発も相次ぎ、宿泊施設も急激に増大していった。当時、大阪との間を結ぶ瀬戸内航路は最盛期を迎え、1960年(昭和35年)には「瀬戸内海の女王」とも呼ばれたくれない丸が就航したのをはじめ、3000トン級クルーズ客船が、最大時6隻体制で新婚旅行客などを別府へと運んだ。 鉄輪、明礬、柴石の各温泉は、1985年(昭和60年)3月19日に国民保養温泉地に指定されるが、別府の観光客は1976年(昭和51年)をピークに既に減少に転じており、1980年代までは1200万人前後で推移したものの、1990年代のバブル崩壊後には1000万人台にまで落ち込んだ。観光客減少の原因としては、国内各地でのテーマパーク開園や海外旅行の一般化等の国民の余興と娯楽の多様化、団体旅行から個人旅行への変化等が挙げられている。 しかしながら、これだけの多様な温泉群が密集する地区は全国的にも珍しく、平成になって韓国などの日本国外からの利用客が増加した。さらに、人口10万人あたりの留学生数が日本一の大分県の中でも、立命館アジア太平洋大学などを抱える別府市は特に留学生が多く、アジアのみならずヨーロッパやアフリカ各地からの留学生も、別府特有の共同温泉を中心とした地域コミュニティにも積極的に溶け込んで生活している。そしてこのような国際都市としてのメリットを活かして、欧米からの外国人個人旅行者の受け入れを本格化する取り組みを進めている。
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