民族形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 07:10 UTC 版)
「クリミア・タタール人」の記事における「民族形成」の解説
クリミア・タタール人は、13世紀から18世紀にかけてクリミア半島を中心に南ロシアを支配したクリミア・ハン国のテュルク系ムスリム住民を起源とする。 クリミア・ハン国時代のタタールは、クリミア半島中央部を中心とするクリミア・タタールと、黒海北岸にかけて広がるノガイ(ノガイ・タタール)の二大グループに分かれており、タタール人は主に農民、ノガイ人は遊牧民であった:78。 この時代のクリミア経済を支えた重要な柱にウクライナ人奴隷の貿易があり、クリミア・ハン国の宗主権下で自立的な行動を行っていたノガイ人たちは15世紀から18世紀にかけて、毎年のようにリトアニア大公国とポーランド王国の支配下に置かれたウクライナへの襲撃(英語版)を繰り返し、捕虜を奴隷としてタタール人に売却していた:79。タタール人に捕らえられて売却されたウクライナ出身奴隷としては、スレイマン1世治下のオスマン帝国に奴隷として売られ、後に後宮(ハーレム)での権力争いを制してスレイマン1世の正式な皇后にまで登り詰めたヒュッレムが有名である。 現在のクリミア・タタール民族は、キプチャク系遊牧民のノガイとオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む非テュルクの諸民族の子孫が混交して形成された。ノガイらテュルク系民族はクリミア半島においては北部のステップに居住し、遊牧生活をやめた後も牧畜を中心に生計を立てていたが、南部の人々はギリシャ人、ジェノヴァ人、ゴート系、スキタイ系、キンメリア系、ハザールなどの子孫からなる混成集団で、園芸、菜園、手工業、牧羊などで生活を営んでいた。今日のクリミア・タタール人は北部の遊牧民の末裔と南部の14世紀以降にキリスト教からイスラム教に改宗した諸民族が混交して形成され、現在も南北で別々のサブグループに分かれると考えられている:74。
※この「民族形成」の解説は、「クリミア・タタール人」の解説の一部です。
「民族形成」を含む「クリミア・タタール人」の記事については、「クリミア・タタール人」の概要を参照ください。
- 民族形成のページへのリンク