民族性について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
カフカが生涯を送ったプラハはチェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の三民族が混在しており、その内の大多数はチェコ語を話すチェコ人であった。少数派のユダヤ人は、その多くがドイツ語を話したが、1900年時点の統計ではプラハの全人口45万人の内、ドイツ人、及びユダヤ人のドイツ語人口は3万4000人に過ぎなかった。そしてドイツ文化に同化していたユダヤ人はドイツ人と共にドイツ文化圏の一員と見なされており、チェコ人の側から見れば両者はほとんど区別されなかった。この様な中でカフカは自分をドイツの文化にもユダヤの文化にも馴染めない「半ドイツ人」と見なし、他所者の様に感じていた。 カフカの学生時代からの友人であるフーゴ・ベルクマン、マックス・ブロートは早くからシオニズムに傾き、彼等との関係からカフカもプラハのシオニスト達との付き合いがあったが、しかしその活動自体には、あまり関心を持たなかった。1909年からプラハでシオニズムの講演を行なっていたマルティン・ブーバーと知り合い、その後もしばしば会っているが、カフカはブーバーの著作はあまり評価していない。カフカが民族性の意識に目覚めるのは、1911年秋に当時プラハで公演していたイディッシュ語劇団と出会ってからである。カフカはこの時、初めて生きたユダヤ性に出会ったと感じ、劇団の主催者イツァーク・レーヴィとの付き合いに熱中し、彼らの活動を擁護する為に友人達に働きかけ、翌1912年2月18日には学生組織の主催で「ジャルゴンについて」と題する講演を行なった。彼等との付き合いに触発され、この時期よりカフカはハインリヒ・グレーツ『ユダヤ人の歴史』や、マイヤー・ピネ『ユダヤ系ドイツ文学の歴史』といった書物を求めて熱心に読む様になり、シオニズムの週刊誌『自衛』を購読し始めた(1917年から定期購読)。 1917年に喀血してからはヘブライ語の学習に身を入れる様になり、1922年にはフーゴ・ベルクマンの斡旋でプーア・ベン=トゥイムというイスラエル出身の女学生がカフカにイスラエル語(現代ヘブライ語)の家庭教師をしている。ベルクマンの誘いもあり、1923年にはパレスチナへの移住も計画していたが、病身の為、実現しなかった。
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