民族心理学の創始
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「モーリッツ・ラーツァルス」の記事における「民族心理学の創始」の解説
ラーツァルスの最初の出版物『Die Sittliche Berechtigung Preussens in Deutschland』(1850)は一般大衆を惹きつけた。この本の中で、プロイセンが政治的、哲学的、宗教的優位性を理由に、他のドイツ国家に対して指導的であるべきと主張した。1850年から、ラーツァルスは特に心理学に打ち込むようになった。個人の心理学の法則を(彼が社会的存在と考えていた)国家や人類に適用すると、民族心理学という新しい分派を創始した。ローベルト・プルッツの『ドイツ博物館』(1851)の中の『Ueber den Begriff und die Möglichkeit einer Völkerpsychologie als Wissenschaft』と題された記事で、民族心理学研究の基盤を据えた。九年後、シュタインタール(ラーツァルスの友人で、義理の弟)とともに『民族心理学・言語学雑誌』(1-20巻,ベルリン,1860-90、後に『民俗学協会雑誌』として続刊)を創刊した。1856年から1858年にかけて、彼の主著となる『Das Leben der Seele in Monographien』(3巻,第三版,1883-97)を出版した。ヘルバルト哲学の立場から心理学の主要な問題群に取り組む著作であった。口語調の平易な文体で書かれたため、ほどなく多数の読者を得た。1860年にはベルン大学に心理学の教授として招かれた。六年後ベルリンに戻り、王立陸軍士官学校の哲学講師に任命された。その後1874年にベルリン大学の哲学の教授になった。ラーツァルスはシラー財団の創設者の一人であり、長年その会長であった。また、彼はヴィクトリア=ライゼウム(ベルリンの女学校)の講師でもあった。70歳の誕生日のとき、ドイツ皇帝、ベルン大学、シンシナティのヘブライ・ユニオン・カレッジから、それぞれ宮中顧問官、法学博士の学位、神学博士の学位を授与された。1895年、最初の妻の死後、彼の影響のもとユダヤ教を受け入れた未亡人、ナヒダ・ルース・レミーと再婚した。晩年はメラーノで隠居生活を送った。
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