隠居生活とは? わかりやすく解説

隠居生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 00:42 UTC 版)

殷浩」の記事における「隠居生活」の解説

深い見識と広い度量持ち合わせ清明さは遠大であった20歳にしてその評判響き渡り、特に清談においてその名を馳せ叔父の殷融と共に老子』や『易経』をよく好んだ殷浩舌戦においては殷融を凌いだが、書を著して説を立てる事においては殷融が勝ったという。殷浩はこれにより風雅な弁士から崇拝されるとなった始め三府太尉司徒司空)から招聘受けたが、いずれも辞退して受けなかった。 咸和9年334年6月征西将軍庾亮から招かれ記室参軍となり、さらに昇進重ねて司徒長史任じられた。やがて安西庾翼からは司馬となるよう要請を受け、詔により侍中安西軍司にも任じられたが、いずれも病と称して受けず墓所のある荒山において隠居生活をするようになったその後10年近く渡って隠居続けたが、 当時の人はこの行為管仲諸葛亮擬え次第にその才名庾翼杜乂並んで時代代表する程のものとなった。ただ、その庾翼だけは「こういう輩は高閣束ねておき(名前だけは有名なのでお飾り役職与えておくという意味)、天下太平待ってから、然る後にその任について議論すべきであろう」と述べ、あまり評価していなかったともいう。 王濛謝尚はなおも殷浩仕官意思があるかどうかを探ると共に東晋興亡について一緒に占おうと考え彼の住居訪問した。だが、殷浩確然とした避世の志を知り、踵を返した。その帰路において、彼らは互いに「深源(殷浩の字)は起きなかった。蒼生庶民)とどのようにして向き合えばよいのだ!」と嘆息したという。庾翼もまた殷浩に書を送って強く仕官勧めたが、殷浩固く辞退して応じなかった。 建元元年343年)から永和2年346年)にかけて、朝政掌握していた庾冰兄弟何充らは相次いで亡くなると、会稽王司馬昱(後の簡文帝)が宰相となって政務司るようになった永和2年346年2月衛将軍褚裒司馬昱殷浩の事を推挙して登用勧めると、司馬昱もまたこれに同意した3月殷浩招聘受けて建武将軍揚州刺史任じられたが、殷浩また上疏して辞退する旨を告げと共に司馬昱にも書簡送って自らの志を伝えた。だが、司馬昱もまたこれに返書送って自らの思い告げ、再び仕官するよう要請した殷浩幾度も辞退繰り返したが、3月から7月になったところでようやくその任を受けた

※この「隠居生活」の解説は、「殷浩」の解説の一部です。
「隠居生活」を含む「殷浩」の記事については、「殷浩」の概要を参照ください。

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