隠居後から大政奉還
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前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた[要出典]。容堂は、思想が四賢侯に共通する公武合体派であり、単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった[要出典]。 謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊王攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合体派の吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。 文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く、短期間で崩壊した。 東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。 慶応3年(1867年)5月、薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を続ける。結局この会議は短期間で崩壊した。しかし同5月21日には、薩摩藩士の小松帯刀の京都邸において、中岡慎太郎の仲介により土佐藩の乾退助、谷干城と、薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実らが武力討幕を議して、薩土密約を締結。翌22日に乾によって密約の内容が報告され、容堂は大坂でアルミニー銃300挺の購入を許可した。その後、容堂は乾を伴って、6月初旬に土佐に帰国。 ところが、容堂や乾と入れ違いに上洛した、坂本龍馬、後藤象二郎らは、薩土密約の締結から約1か月後にあたる6月22日、京都の料亭にて、大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎が議して、武力討幕ではなく大政奉還による王政復古を目標に掲げ薩土盟約を締結した。この薩土盟約は約2か月半で早々に瓦解し、乾と西郷が結んだ薩土密約が次第に重視せられ、土佐藩全体も徐々に討幕路線に近付いていくことになる。 容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府に恩義を感じて擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案を坂本より聞いていた後藤は、これらを自分の案として容堂に進言した[要出典]。容堂はこれを妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白した。 慶喜は「日本国の為に徳川家康が開いた幕府を、日本国の為に自分が葬る覚悟」で慶応2(1866)年12月5日将軍職を拝命し、翌慶応3年10月14日(1867年11月9日)朝廷に政権を返還した。
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