隠居・没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 07:20 UTC 版)
文久2年(1862年)、利忠は病気を理由に隠居し、15歳の三男・捨次郎が利恒と改名して家督を相続した。藩政改革は軌道に乗り、借金まみれだった財政は黒字化を達成していた。藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備され、樺太まで準藩領になった。何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気が蘇ったことが最大の成果といえる。天保13年の「更始の令」以来、大野藩自体をもう一度やり直す(更に始める)、という気概で取り組んできた改革は見事に実を結んだ。 利忠は明治元年(1868年)に没した。享年58。 明治15年(1882年)、旧藩士たちの手により、大野城ふもとに利忠を祭った神社「柳廼社(やなぎのやしろ)」が建立された。
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