隠居・晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 22:25 UTC 版)
明治になると、古河城下の横町(現在の古河市横山町)で貸座敷業「三村屋」を営む。博奕業は政府の規制が厳しく、控えめになった。明治の半ばに三村屋をたたみ、二丁目(現在の古河市中央町~本町)で呉服太物屋三田屋を経営していた養子のもとで隠居した。 明治26年(1893年)1月、貞蔵の子分で生井一家の幹部・宝田多三郎(多惣次)が、石下(現在の常総市)の博徒に殴り込みをかけるという噂が立ち、貞蔵と多三郎の両名が古河町警察に始末書を提出。「喧嘩ではなく、仏事の相談をしている」と釈明している。40年前の元治元年(1864年)11月、縄張り争いのなかで、生井一家と間の川一家の子分7人が石下の博徒に殺され、12月には報復として石下勢1人が殺された事件があった。報復の中心人物として多三郎に嫌疑がかかり、取り調べの結果、放免されたが、その余韻がまだ残っていた。 明治42年(1910年)4月15日、古河町で貞蔵の米寿祝賀が盛大に行われた。東京から二十余名、その他地域からも親分衆が多数集まり、古河町の芸妓は全員、結城町からも20人が呼び寄せられた。翌日には人力車を連ねて、雀神社を参拝。このとき投銭めあてに人が集まり、芝居小屋がかかるほど賑わったという。 大正元年(1912年)10月12日、93歳で死去。10月25日に上辺見の先祖の墓地に埋葬され、葬儀は11月1日に正定寺で執り行われた。このときも東京やその他各地から親分衆が数十名集まった。
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